山中御殿

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イメージ 1松平直政(1601-1666.3.8)

結城秀康の三男。母は月照院。河内丸、国丸。出羽介、出羽守。幼いころは周囲から冷遇されていたが、大阪冬の陣に出陣、真田幸村のこもる真田丸を攻めて幸村からその勇気を賞賛された。この活躍が認められて上総国姉ヶ崎藩1万石に封じられ、以後、越前国大野藩5万石、信濃国松本藩7万石と加増。さらに松江藩の京極氏が断絶したことから、隠岐国・出雲国松江19万石へ加増移封されて松江松平藩の藩祖となった。

不遇の幼少期

 松平直政の父は結城秀康ですが、この人物は徳川家康の次男にあたります。
 秀康は側室の子であったために家督を継ぐことができず、疎んじられたとされています。
 はじめ豊臣秀吉の養子となり、後に下総国結城城主・結城晴朝の姪と婚姻し結城氏を継いだことから結城姓を名乗っています。

 直政は、この秀康の子として近江国伊香郡河内で生まれました。
 河内で生まれたために河内丸と名付けられましたが、直政もまた側室の子であり、母の身分が低かったために周囲から軽んじられ、家臣・朝日重政に預けられて養育されたのです。
 さらに、祖父・家康への目通りもなかなかかなわず、他の兄弟より遅れていたようです。
 直政が家康と謁見できたのは慶長16年(1611)のことで、このとき異母兄・松平忠直から「直」をもらって出羽介直政と名乗るようになったとされています。

 これに先立つ慶長12年(1607)、父・秀康が梅毒を得て病死しています。
 父・秀康は越前北庄67万石を領していましたが、その遺領は兄・忠直が跡を継ぎ、直政は忠直に養われる部屋住みの身分となったのです。

大阪の陣

 慶長19年(1614)、「大坂の陣」がはじまります。これは、徳川家康が豊臣家を滅ぼすために2度にわたって戦った戦いです(冬の陣、夏の陣)。
 北ノ庄城にも大坂への出陣命令が届きますが、これを聞いた直政は兄・忠直に自ら出陣を懇願します。はじめ忠直は直政がまだ若年であるためこれを押しとどめますが、直政の熱意に感じてついに出陣を許可したといわれています。
 しかし直政は部屋住みの身分で、軍資金がありません。これをみた家臣・神谷兵庫が西本願寺にかけあってら二千両もの大金を借りてきたのです。このおかげで直政は出陣の準備を整えることができました。

 こうして「冬の陣」に勇躍出陣した直政は、兄・忠直に従って豊臣氏随一の名将・真田幸村(信繁)が守る真田丸を攻撃します。
 真田丸からの苛烈な攻撃のまえに、松平勢をはじめとする徳川方の兵は進軍することが出来ず、多数の死傷者を出す有様でした。しかしそのなかを直政は果敢に攻撃、真田丸からその様子を見ていた真田幸村は感嘆し、その勇気を讃えて軍扇を投げ与えました。
 この軍扇はのちに出雲松平家の家宝として、大名行列の先頭を飾ったと言われています。

 翌年、「夏の陣」にも出陣した直政は、ふたたび兄・忠直の軍に従って活躍、忠直軍は真田幸村をはじめとする多くの敵将兵の首を獲り、多大な戦功を挙げています。
 このとき、直政の家臣・武藤太兵衛が直政の性器を握り、「人は怖気づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と言ったとされています。

 この二度にわたる大坂の陣での活躍は祖父・家康をおおいに喜ばせ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられました。
 兄・忠直も直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えています。

出雲松江藩

 元和2年(1616)、幕府から上総国姉ヶ崎1万石の領土と出羽守の官位を与えられ、正式な大名となることができました。
 その後の寛永元年(1623)、兄・忠直が乱行や徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後国に配流されると直政は越前国大野藩5万石に加増移封され、寛永10年(1633)には信濃国松本藩7万石、そして寛永15(1638)には隠岐国・出雲国松江19万石へ加増移封され、国持大名となったのです。
こうして、直政は松江藩の藩主となりました。

 松江藩主となった直政は、『富国・安民・質素・公平・節財・知人・立法』の大綱を示して政治の基本方針としました。
 直政は重農政策をとって農産振興に力をいれ、一方で儒学者を招いて学問を奨励しています。
 また、隠岐の後鳥羽院御陵の修理・社領の寄進や造営・寺領寄進・文武奨励・治水や産業の奨励・博愛を説くなど、数々の治績がありました。

 また、直政はキリシタンを厳しく弾圧したことでも知られています。
 前領主である京極氏や堀尾氏もキリシタン弾圧を行いましたが、直政の弾圧はそれを上回る厳しいものであったようです。

 その後寛文3年(1663)、幕命を受けて霊元天皇即位の賀使となって上洛しました。
 しかしこれによほど気を使ったためか、この直後にわかに病を得、寛文6年(1666)、江戸藩邸にて病死しました。享年66歳。墓地は島根県松江市の月照寺にあります。

直政の人物

 直政は父・秀康の血をよく受け継いだ、非常に勇猛な人物だったようです。「大阪の陣」での戦いぶりは、爽やかな若武者という印象を与えます。
 しかし直政の初陣であった大阪の陣を最後に、「戦国」は終わりを告げ、世は太平へと向かいました。

 直政が勇猛なだけの人物であれば、小藩の領主どまりで一国の国持ち大名にまでは成長しなかったでしょう。
 しかし、直政は出雲・隠岐19万石の領主へと出世しています。
 徳川幕府は、その初期は親藩大名であっても厳しく取り潰しや減封を行ったことで知られていますが、直政はその中にあってこれだけの出世を果たしたのです。
 これは、直政の政治感覚が鋭いものであったことを示すものでしょう。
 直政は口達者な人物で、『油口』と陰口をたたかれるほどであったと言われています。いってみればこれは、直政が世渡り上手であったということを示すものでもあるでしょう。

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私は真田真田幸村派でして松平直政との最後の決戦のシーンには涙する人です。でもこの直政は家康の孫という華やかさとは無縁の苦労を幼少からしているとは知りませんでした。戦国時代は側室の子供は祖父との面会もできないほど差別されていたとは・・・しかしその苦労が後年の立身出世を助けたのだと思います。見直しました。

2005/12/26(月) 午後 7:27 ゆーくんままま

>KOROKOROさん オイラは松江出身でありながら、この松江松平藩の藩祖である直政のことをよく知らなかったのです。大阪の陣に出陣したことぐらいは知っていましたが…不遇な幼少期を過ごしたというのは今回はじめて知りました。「日本一の兵」といわれたほどの幸村に賞賛されたというから、直政もなかなかの人物なんですねぇ。

2005/12/27(火) 午後 8:29 佐々木斉久

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自分もこの人物についてはよく知りませんでした。ましてや、菊池寛の『忠直卿行状記』で知られる松平忠直の弟だったことは初めて知りました。家康の子や孫と言っても、この直政のように不遇な少年時代を送った人物が沢山いたのだということを再認識しました。

2006/1/3(火) 午後 7:18 [ mannennetaro2005 ]

>寝太郎さん 子孫がたくさんいれば、そのぶん跡目争いにつながりかねないですからねぇ。同じ徳川一門でも、格付けされてしまうんですよ、きっと。その証拠に親藩大名でも容赦なく改易させられてますからねぇ。。。

2006/1/4(水) 午前 5:03 佐々木斉久


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