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NHK大河ドラマ『風林火山』が好評で、俄然注目をあびることになった山本勘助。 しかし実は、この山本勘助、実在が疑われる武将なのです。 山本勘助を軍略に長けた武将として描いたのは『甲陽軍鑑』という書物がはじめで、これは江戸時代初期の17世紀初頭に成立したと考えられるモノです。 というより、実のところ『甲陽軍鑑』以外の史料に「山本勘助」という名前の武将は登場しません。 その後様々な物語に登場する山本勘助は、すべてこの『甲陽軍鑑』をもとにしており、江戸時代には『甲陽軍鑑』は軍学の聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助という人物の存在は史実として疑われていなかったのです。 が、しかし。 明治以降近代的な実証主義歴史学が取り入れられると、『太平記』や『太閤記』といった古典的な軍記物語に対する史料批判が行われ、その史料性が否定されるようになります。 これは『甲陽軍鑑』も同様で、『甲陽軍鑑』を検証すると、一次史料(大名や家臣などの発給した文書)と明らかに異なる記述が多々あることが確認され、史料性はきわめて低いという評価を受けるようになりました。 そうなると当然ながら『甲陽軍鑑』にのみに登場する「山本勘助」の実在は疑問視され、活動はおろか名前自体が一次史料での所見が無い山本勘助の活動は史実とは考えられなくなります。 そして、更に進んで架空の人物と考えられるようにさえなりました。 ところが昭和44年(1969年)、北海道釧路市において、ある古文書が発見されます。 たまたま大河ドラマ「天と地と」を見ていた人が、自分の家に伝来する古文書にもなにか価値があるのではと引っ張り出したのが発見の発端だとか。 この方の先祖はかつて信濃国の国人の家系で戦国時代には武田家にも属していたらしく、明治になって屯田兵として北海道へ移住していたものだそうです。 はたしてこの文書の鑑定結果は真物と確認され、その書状に「山本菅助」の名があったのです。 『市川文書』と呼ばれるこの書状の発見によって、実在そのものが疑われていた山本勘助が、にわかに実在の色を濃くしました。 『市川文書』は弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いの際に信濃国衆市川藤若に晴信が宛てた書状で、口上を述べる使者が「山本菅助」だったそうです。 この時代の使者は一兵卒という軽輩ではなく、主君の信頼の厚いある程度身分の高い武士がつとめるのが普通で、その意味から山本菅助はそこそこの身分の武士であろうと推測されます。 つまり「山本菅助」は『甲陽軍鑑』に描かれる「山本勘助」のような軍師的な武将ではなく、伝令将校のような役割を果たす人物であったと思われます。 とはいえ、それなりの力量と識見がなければ務まらない役割であることもまた事実ではあります。 『甲陽軍鑑』に記された「山本勘助」と『市川文書』に残された「山本菅助」とを直接結びつける記録はいまのところ発見されていません。 というか、「山本菅助」については上記の文書以外に確認することが出来ないので、伝令将校であるという以外はどういう人物なのか全く分からないのです。 『甲陽軍鑑』の作者が実在の「山本菅助」をモデルに彼の伝令将校としての役割を承知の上でイメージを膨らませ、「山本勘助」を創造したという可能性は十分に考えられますが、これも可能性の域を出ません。 結論としては、「実在かどうかは不明」なのです。 結局「不明かい!」とつっこまないように…
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歴史人物列伝
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甲陽軍鑑の作者も。後世これほど、騒がれ、楽しまれる作品になろうとは、予想もしなかったでしょう。もともと、この軍記物は、読み本として、娯楽であり、歴史を伝えるものでは、ないのでしょうが、いつの間にか、信玄、謙信間の正当な闘争史に、格上げされたようです。フランスの天才、ジャンーコクトーの言葉が、思い出されます。歴史は、伝説が大半であり、伝説は歴史に格上げされた、ウソである。、、
2007/4/14(土) 午後 0:19 [ サチコ ]
な〜るほど。史料というのは大事ですね。一つの史料が、図書館一つをパアにすることだってあるのですね。
2007/4/14(土) 午後 3:55 [ いずものしげちゃん ]
この文章にも出てくる『天と地と』ですが、海音寺潮五郎さんの原作では、「実在の人物であったが地位の低い者だった」とする歴史学者・渡辺世祐博士の研究を引用し、「この説が信用される」として勘助は登場しません。これも大河ドラマで放送された新田次郎原作『武田信玄』では、忍びの心得も持った人物として描かれていましたが、知名度が高いわりにはいまだに謎の多い人物で、だからこそ魅かれる部分もありますね。
2007/4/14(土) 午後 7:26 [ mannennetaro2005 ]
NHKの大河ドラマにとりあげられるのは、歴史的事実よりは視聴率をとれるドラマチックなストーリーが重要なのでしょうか。山中鹿介とかもやってほしな...大戦で戦機高揚に利用されたから扱ってもらえないのだろうか。
2007/4/15(日) 午前 11:14 [ 古城めぐり ]
syoujitosachikoさん>たしかに信じられている歴史って大半が伝説ですよねぇ。一次史料の発掘によって事実ではないと分かった事柄でも、けっこう事実として信じられてたりしますから…
2007/4/22(日) 午前 0:31
シゲさん>今までの研究をまったく覆すような史料はなかなか出てこないんでしょうけど、「図書館ひとつ」というのはおおげさかもしれませんが、見つかったときの衝撃はすごいでしょうねぇ。
2007/4/22(日) 午前 0:32
寝太郎さん>僕自身は本文中の推論のように、山本勘助は伝令将校山本菅助をモデルに作り上げられた虚構の人物だと思ってます。ただ、『甲陽軍鑑』作者の先祖が山本家の出であったという説があるものの、「山本勘助」が『甲陽軍鑑』でこれほど大きくとりあげられるのは、それを割り引いても実在の「山本菅助」が印象に残るだけの特異な人物であったからではないかと思っています。
2007/4/22(日) 午前 0:46
xyz_peace2000さん>歴史小説や時代劇といったものは、かならずしも史実に忠実である必要なないですからねぇ。あくまで歴史をモチーフにした「虚構」ですから。山中鹿介はたしかにドラマチックなんですが、おっしゃるようにムズカシイきがしますね。。。
2007/4/22(日) 午前 0:49
山本勘助の実在については、『甲陽軍鑑』という書物だけに登場し、しかもこれを編纂した一人が勘助の末裔ということで、その存在は確かに疑問ですよね〜。私は新田次郎先生のように、実在したが軍師ではなく、間者的は足軽侍であったため名前が表にでなかったという説に心惹かれています。孫子に通じ軍議を重んじながらも結局は独裁者であった信玄に、勘助のような軍師は不要だったのではないでしょうか?
2007/4/25(水) 午前 0:19
ゆーくんママさん>確かに間者だったとすれば目立っては間者失格ですもんね^^; でも、隻眼だったというのが本当ならそんな目立つ風貌では間者はつとまらないかも…
2007/4/25(水) 午前 1:45