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尼子興久(1497?-1534)
尼子経久の三男。母は吉川経基女。彦四郎、宮内大輔。兄に尼子政久、尼子国久、子に塩冶清久。 奉公衆塩冶氏を継承し(一説に塩冶貞慶の養嗣子となって塩冶氏を継いだ)、塩冶興久を名乗る。幼少より武勇に優れて武の柱石として期待されたとされるが、やがて出雲最大級の経済要地である塩冶郷の経済基盤を背景に自立を目指して父経久と対立し、敗れて自害した。 永正5年(1508)、周防の大内義興が大挙上洛し、細川高国と組んで足利義稙を擁立、将軍位に据えて管領代として室町幕府の実権を握りました。 この上洛には中国地方の諸領主が従いましたが、興久の父尼子経久もこれに従ったといわれています。この時期経久は出雲国内の統一を進める一方で備後経略もめざしていたようで、そのために大内義興に接近したものと思われます。そしてこのとき興久は大内義興の偏諱を受けたものと推測されます。 永正15年(1518)、興久は日御碕神社への社領寄進を行っています。 このとき寄進状に「塩冶彦四郎興久」と記されていることから、この段階で塩冶氏の家督を継承していたことがわかります。 塩冶氏は鎌倉期出雲守護であった家柄ですが、南北朝期に塩冶高貞が足利尊氏の執事高師直と対立して敗死し、守護職を失います。 しかし塩冶氏そのものが滅んだわけではなく、斐伊川水系に散在する庶流諸氏を統率するなどして勢力を保ち続け、その所領・権益はなお出雲西部一帯に及んでいました。加えて同族の古志氏や出雲大社宮司家の出雲国造千家・北島両氏などと血縁関係を背景とした強力な一揆的結びつきを持ったことから、その影響力は出雲一国に及ぶものであったと推測されます。 さらに、塩冶氏は6代将軍足利義教からはじまる奉公衆に選ばれて守護不入の特権を得ていました。 ただ、10代将軍足利義材(義稙)が1493年(明応2)に河内国の畠山義豊を討伐中に幕府において管領の細川政元が将軍廃立を行ったさい(明応の政変)、奉公衆の制度は事実上解体されましたが、名目としての奉公衆が即座に消え去ったわけではないようで、塩冶氏についても守護不入の立場を保持し続けていたようです。 つまり興久が塩冶氏を継承したのは、尼子氏の支配権を出雲西部まで浸透させ、さらに出雲大社・古志氏との結びつきを解体し、これらを独自に掌握する狙いがあったものと思われます。 興久の塩冶氏継承の具体的ないきさつは不明ですが、種々の合戦を雄弁に語る『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの諸軍記になんの記述もないことからすれば、尼子氏との戦争の結果であるとは考えにくく、また塩冶氏の諸系図には多数の兄弟・庶子が見られるため、後継者が絶えたための措置であるとも考えられません。 塩冶氏は先述のように奉公衆でしたが、奉公衆は在京が原則であるため惣領は京におり、出雲の所領については庶子家が代官として治めていたものと思われます。これを勘案するならば、惣領と庶子の間に相反する利害関係が生じたため惣領と庶子が対立し、その結果として地力に勝る庶子が惣領を廃し、かわりの惣領を外部から迎えたのではないかとも推測できます。そして、その結果迎えられたのが興久であったのでしょう。 ともかく興久は塩冶氏を継承しました。 経久は塩冶氏の所領・諸権益を興久に掌握させる一方で、塩冶氏の同盟関係の解体につとめようとしたようです。その試みはある程度の成功をおさめ、塩冶氏が代官をつとめた幕府御料所朝山郷は尼子宗家の直轄領に組み込まれ、また塩冶氏と同盟していた古志氏が尼子氏の家臣団に組み込まれました。 ところが、興久が旧塩冶時代の権益を掌握していった結果、独自に杵築大社との同盟関係を修復・構築し、また地域的つながりから雲南の三沢氏や多賀氏などとも同盟関係を構築して、その勢力は尼子宗家を脅かすほどのものへと成長していきました。興久は備後北部の甲山城主山内直通の娘を娶っていたため、その同盟勢力は実に出雲西部から雲南、備後北辺にいたる広大な地域のものとなったようです。 このように巨大な勢力となった興久に対し、経久が何もせず手をこまねいたとは思えません。 当然、塩冶氏の権益を制限するような手立てを考え、実行したものと思われますが、これも当然ながら興久はこれに反発したものと考えられます。 その結果として、興久と経久との抗争へと発展していきます。 『陰徳太平記』によれば、興久と経久の対立のいきさつは次のようなものです。 興久は領有する塩冶三千貫を不足として原手郡(今の斐川平野辺か)八百貫の加増を亀井安綱(秀綱か)・牛尾幸清を介して経久に申し出たものの、断られてしまいます。このため興久は亀井・牛尾が邪魔したせいだと腹を立て、ちょうど杵築へときていた亀井安綱を襲撃しますが、経久が直ちに兵を派遣したため安綱は難を逃れます。興久は経久のこの処置を深く恨み、ついに「謀反」へと至った、というのです。 しかし実際には先述のように興久の勢力は強大化しており、所領の不足を恨んでの「謀反」などという質のものでないことは確かです。 また先述の杵築大社や三沢氏、多賀氏などの有力領主に加え、鰐淵寺なども興久に加担する動きを見せており、さらには尼子氏宗家の勢力基盤を担ってきた大原郡内からも興久に加担する動きを示した領主もいたため、尼子氏の勢力浸透に対して根強い反発があり、それらの領主が興久を支持したことによって引き起こされたものである可能性が高いと思われます。 また『陰徳太平記』『雲陽軍実記』などでは、興久の「謀反」は、天文元年(1532)8月、佐陀城(松江市浜佐陀)での挙兵からはじまりますが、実際には事変の兆候はもっと早く訪れます。 享録3年(1530)4月5日塩冶興久書状によれば、興久は出雲成相寺に対し、経久から課せられた公役の忌避を推奨し、あわせて同寺の地位の保障を約束しています。これはつまり、経久の政治機構を真っ向から否定するものであって、経久への宣戦布告に他なりません。また、「杵築大社旧御遷宮次第」は興久「謀反」は享禄3年3月8日のこととしています。 当然、これは興久と経久とが完全に決裂した段階での文書であるため、実際にはこれよりも以前に対立が表面化していたのでしょう。 その後の戦いの経緯については具体的には分かりませんが、享録3年5月28日「陶興房書状」によれば、興久はかなり善戦しており、また興久と経久はそれぞれ伝をもとめて大内氏に対し協力を求めていたことがわかります。 大内方は返答を躊躇していたようですが、最終的には大内方にあった安芸毛利氏のすすめにより、経久に味方することになりました。この毛利氏の動きは、享禄4年(1531)7月10日「尼子詮久契約状写」にあるように経久の嫡孫詮久(のち晴久)が毛利元就と義兄弟の契りを結んだことが背景となっているようです。 『陰徳太平記』『雲陽軍実記』などによれば、興久と経久の対決の展開は、次のようなものです。 天文元年8月、興久は今岡弥五郎を佐陀城番として700の兵を与え、経久の討手7000を防がせます。今岡弥五郎は十倍の敵を相手によく戦いましたが、さらに尼子国久の新宮党が向背から寄せてきたためについに崩れ、佐陀城は落城してしまいます。 これを受けて興久は末次城(現松江城のある亀田山)の若林伯耆守を攻撃しましたが、豪勇の若林伯耆守を攻めあぐねているうちに背後を尼子久幸、国久らに衝かれ、総崩れとなって単身舅山内直通の居城備後甲山城へと逃れました。 ここに出てくる佐陀城は佐陀荘内に位置する城です。 室町期塩冶氏が生馬郷を有していたことや、享禄3年に興久が佐陀神社神宮寺成相寺への安堵状を発給していることからも分かるように、佐陀荘が塩冶氏と歴史的つながりの深い土地であったことは確かで、この佐陀城のエピソードはなんらかの事実に基づいたものである可能性があります。 とすれば、『陰徳太平記』『雲陽軍実記』などの興久謀反のくだりは、対決の最末期の様子だけを抜きだして書かれたものであるかもしれません。 ともかく事実としては、興久は大内氏の援軍が得られなかったことで劣勢となり、舅山内直通の居城備後甲山城へと逃れました。 天文2年(1533)の11月11日新見国経書状によれば、このとき尼子軍が備後山内氏を攻撃するために出兵していることが確認できますので、なおしばらく興久は抗戦を続けたようですが、すでに大勢は決していました。 興久の変わり果てた姿を見た経久は、茫然として「あれどもなきが如く」になったとされています。 ※写真は月山富田城の興久の墓(安来市広瀬町)。
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