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尼子政久(1481?-1513?)
経久の嫡子。母は吉川経基女。又四郎、民部少輔。弟に尼子国久、塩冶興久など。子に尼子晴久、松田久満室など。文武の才能に優れ将来を嘱望されるが、磨石城を攻略中、城主・桜井宗的の放った矢に当たって死亡したという。 政久の生年については同時代の史料には記述がなく正確にはわかりませんが、後世の記述によると、「雲陽軍実記」では文明13年〜14年(1481〜82)ごろ、「諸家系図纂」「中国治乱記」によれば、長享2年(1488)、「陰徳太平記」では明応2年(1493)となっています。 ただ、父経久の生年が長録2年(1458)とされていることから考えると、後者2説では長男であるはずの政久が生まれたのが経久が30をこえたあとになり、かなり不自然だと言わざるを得ません。 また伝承によれば政久は、後土御門天皇の御前にて得意の笛を披露し、「花実相応の大将」と賞されたとされています。仮にこれが事実であるとすると、後土御門天皇の崩年が1500年であることから、この御前披露は当然これ以前に行われたことになり、やはり後者2説では不自然だと思われます。 「雲陽軍実記」にしても後世の作ですので注意が必要ですが、この誕生年である文明13年〜14年ごろが一番妥当だと思われます。 ただ、後述のように政久死後の永正11年(1514)には政久の子詮久の元服が確認できます。ここで詮久は祖父経久の輔弼なしに単独での行動を行っていることから、元服間もない14歳〜15歳などという年齢ではないように思われるため、政久の生年はもっとさかのぼる可能性もあります。 また通説によれば、父経久は文明16年(1484)に守護代の地位を剥奪され富田城を追放された後、文明18年(1486)正月に守護京極政経の任命した新守護代塩冶掃部介を討って京極氏に反旗を翻し、富田城主に返り咲いたとされています。 しかし、政久の名の「政」の字に注目すると、京極政経の偏諱を受けたものとも推測できます。 最近の研究では、同時代の史料に経久が幕府・守護に積極的に反抗した証拠が見出せないことから、下克上説は否定されていますから、やはり政久の名は京極政経の偏諱を受けたものと考えて差し支えないと思われます。 さて、系譜史料によれば、政久は山名兵庫頭の娘を妻に娶ったとされています。この山名兵庫頭なる人物がどのような人物なのかは、同時代の記録になくはっきりしません。 ただ、永正年間はじめごろから尼子氏は伯耆守護山名氏の内紛に介入し、傍流の山名澄之を支援して守護山名尚之と戦っていることから、この山名澄之の系譜に連なる人物である可能性もあります。つまり、政久が山名氏と縁組することで、伯耆支配の強化を図ったものであるということです。 後に経久は山名澄之を伯耆守護につかせて政久の嫡男詮久(のち晴久)を守護代としています。山名兵庫頭が伯耆山名氏であれば、詮久も伯耆山名氏に連なる人物となり、本来伯耆と関係のない尼子氏の守護代補任が正当化できるのです。 その後政久は、永正7(1510)年ごろに民部少輔の官名を称したものと思われます。 この当時、尼子氏は安芸毛利氏と対立関係にあったようです。これは、安芸・備後の諸領主のリーダー格として成長していた毛利興元と、備後進出を目指す尼子氏との利害の衝突した結果の対立であったと思われます。 しかし、政久は父経久とともに、安芸の領主であり尼子氏との同盟関係があった吉川経基を仲介として、この毛利氏との和合を模索していました。 このころの史料からは、経久から家督を継承したのかどうかは不明なものの、政久がある程度の権限を任されて尼子氏惣領として活動していたことがうかがえます。 ところが、永正11年(1514)成立の書状からは、経久とともに現れるのは政久ではなくその子の三郎四郎(詮久)で、以降政久の名は史料から消えてしまいます。したがって、永正11年以前のいずれかの段階で、政久は死去したものと思われます。 政久の死についても明確な同時代史料はありませんが、「雲陽軍実記」「陰徳太平記」などの諸軍記によれば、政久は桜井宗的の籠る出雲阿用城攻撃時に戦死したとされています。 これによれば政久は、阿用城が堅城であることから力攻めをあきらめて城を包囲、兵糧攻めを行ったとされます。が、その最中、毎晩得意の笛をふいていて、敵将桜井宗的は「この笛は政久にちがいない」と夜陰この笛の音めがけて矢を放ち、矢は狙いたがわず政久に当たり、政久は即死したと言うのです。これを受けて経久は次男国久に命じて磨石城を激しく攻めさせ、宗的をはじめとする将兵全てを虐殺したとされています。 またその後、政久の死に落胆した経久は弟久幸に家督を譲ろうとしたものの、久幸はじめとする諸将の反対もあって詮久を後継者に定めたとされています。 この戦死時期は「雲陽軍実記」永正5年(1508)、「諸家系図纂」「中国治乱記」永正10年(1513)、「陰徳太平記」永正15年(1518)となっています。 先述のように政久は永正7年の活動が確認でき、永正11年には死没しているため、阿用城攻撃が事実であれば永正10年の出来事であると思われます。 しかしいずれにしても、尼子氏にとって政久の死は一大痛恨事にはちがいなかったでしょう。 ※写真は政久の墓(八束郡八雲町常栄寺)
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佐々木さんに、ご質問があります。
…後に経久は山名澄之を伯耆守護につかせて政之の嫡男詮久(のち晴久)を守護代としています。…
上述部分の出典は、どの資料なのでしょうか?
「因伯の戦国城郭通史編」又は「新編倉吉市史」でしょうか?
御教示下さいませ。
2017/5/17(水) 午後 3:40 [ 山田憲治 ]