山中御殿

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歴史人物列伝

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尼子国久(改)

尼子国久(?-1554)
経久の次男。母は吉川経基女。孫四郎、刑部少輔、紀伊守。能義郡吉田荘地頭。兄弟に尼子政久、塩冶興久など。子に尼子誠久、尼子豊久、尼子敬久、尼子晴久室など。一門を率いていわゆる新宮党を形成、尼子氏の武の要となるが、やがて甥晴久と対立、粛清された。

□以前の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/nigiribotoke2000/6537550.html

永正5年(1508)、周防の大内義興が大挙上洛し、細川高国と組んで足利義稙を擁立、将軍位に据えて管領代となりました。そして与同した細川高国が管領となり、大内義興とともに室町幕府の実権を握りました。
この上洛には中国地方の諸領主が従いましたが、国久の父経久もこれに従ったといわれています。この時期経久は出雲国内の統一を進める一方で備後経略もめざしていたようで、そのために義興・高国に接近したものと思われます。そしてこのとき国久は細川高国の偏諱を受けたものと推測されます。

さて国久は、尼子氏の本拠富田荘のすぐ東に隣接する吉田荘を領した吉田氏を継承したものと考えられます。
このことは「千家家文書」の永世16年(1519)4月晦日「永世年中大社御遷宮覚次第」の中の、永世7年(1510)の記事に「尼子殿御子息吉田の孫四郎殿」とあることにより確かめられます。また、『雲陽誌』によれば天文6年(1537)の下吉田村八幡宮造営棟札に、「地頭佐々木刑部少輔源国久」の名が記されていたことも確認できます。

吉田氏はもともと吉田荘の地頭であり、「佐々木系図」によれば佐々木秀義の第六子厳秀を祖とする近江佐々木氏の一族です。
京極高氏が出雲守護に補されたおり、その守護代となった吉田秀長(厳覚)の一族であるとされ、正平7年(1352)に山名氏が出雲に侵攻したおりに厳覚は守護所を遂われ、一族は備後福山、朝山村、京都などに分離したとされています。
しかし出雲に残った一族も依然としており、8代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』によれば、幕府奉公衆に選ばれたことがわかります。

奉公衆とは将軍直属の軍事力であると同時に、守護不入の特権を得ていた存在です。
この制度そのものは、10代将軍足利義材(義稙)が1493年(明応2)に河内国の畠山義豊を討伐中に幕府において管領の細川政元が将軍廃立を行ったさい(明応の政変)、事実上解体されました。しかしながら、名目としての奉公衆が即座に消え去ったわけではなかったようです。

尼子氏は永世5年の京極政経の死により守護権限を継承し、それを内外から認められて出雲支配を進めたものと思われます。吉田氏の権益の実態がどれほどのものであったのかは不明ですが、守護権限の及ばない吉田荘には名目的には権力が及ばなかったのです。
したがって、国久が吉田氏を継承したのは、弟興久が奉公衆塩冶氏を継承したのと同様の施策であり、尼子氏の勢力基盤というべき能義郡をより安定的に支配するために行われた施策であると考えられます。

『伯耆民談記』によれば、国久は大永4年(1524)、父尼子国久の命により軍勢を率いて伯耆に攻め入り、尾高城、不動ヶ城、羽衣石城などの諸城を次々に陥落させたとされており(大永の五月崩れ)、これが定説的な位置を占めてきました。
しかしそれは事実ではなく、尼子氏は永正年間(1504〜1521)はじめごろから伯耆山名氏の守護職相続の内紛に介入し、諸子家の山名澄之を支援して西伯耆へと進出して以後、段階的に伯耆を支配下におさめたものと考えられます。
尼子氏は山名澄之を守護職に据えて尼子詮久(後の晴久)を守護代とし、伯耆を支配下におさめましたが、山名澄之は尼子氏の傀儡となることを嫌ったため、西伯耆・美作の国衆と連携して尼子氏に抵抗します。
しかし澄之が天文2年(1533年)に死没してしまったために西伯耆の反尼子勢力は衰え、天文9年(1540年)前後には尼子氏に平定されたようです。
つまり伯耆国は大永4年に国久の電撃的な作戦によって一気に尼子氏に制圧されたものではなく、40年近くかかって徐々に尼子氏の支配に属したものであるといえるようです。

享録3年(1530)、国久の実弟である塩冶興久が父経久と反目し、内紛に発展します。
この内紛は天文3年(1534)まで続き、興久の自害によって終結しましたが、経久は国久に旧塩冶氏の旧領や諸権益の掌握を命じ、国久はそれに応えて旧塩冶領に進出、興久死後の混乱を収拾しました。

天文9年(1540年)、経久から家督を継承した詮久(のち晴久)は安芸吉田郡山城の攻撃を決定し、国久に備後路への侵入を命じます。国久は精兵三千を率いて備後から江の川を渡河しまたとされますが、宍戸氏の反撃にあって、失敗したようです。
詮久はそのため石見路から三万といわれる大軍を率いて吉田郡山城へと進軍しますが敗北し、撤退しています。これを受けて天文12年(1543)には大内義隆が月山富田城を攻撃しますが、国久の活躍もあって尼子軍はこれを撃破しています。

なお『陰徳太平記』によれば、天文9年、尼子氏の郡山出陣の間隙を縫って但馬・因幡両山名氏が武田常信(国信か)・南条宗勝らを伯耆に攻め入らせたとされており、このために国久とその子豊久が軍を返して伯耆に急行、戦闘におよんだといいます。そしてこの戦いで豊久が戦死したため、激昂した国久らの鬼神のごとき活躍で武田・南条軍は敗れ去ったとされています(橋津川の戦い)。
しかしながら、当の南条宗勝は実際には尼子氏の部将として郡山に出陣しており、また山名氏も因幡の山名誠通(久通)と但馬の山名宗詮(祐豊)との間で抗争が起こっていたため、軍勢を派遣するために協調したとは考えられません。
そのため、この戦いが事実であるとしても、武田国信が但馬山名方についたとみられる天文14年(1545)以降に起こったものであると考えなければなりません。「佐々木系図」では豊久の死を天文16年(1547)6月としているため、これをこの戦いの年月に比定する考えもあるようです。

その後、国久は郡山合戦敗北にって失墜した尼子氏の威信を回復するため、尼子軍の中核となって四方に遠征、成果をあげたようです。
このような成果から、一般に国久は「新宮党」の領袖として強大な軍事力を有し、尼子氏の柱石となったという評価がなされています。
これは単に国久の軍事的才能が優れていたというだけではなく、塩冶興久の旧領・諸権益を継承してその軍事力を支えうる基盤としたことが一番の理由であろうと思われます。
塩冶郷は肥沃な穀倉地帯という評価が高いようですが、それに加えて水運により物資の集積地として栄えた出雲最大級の経済要地であるということが重要であり、国久の存立基盤はここにありました。
また、国久は塩冶氏の有していた出雲西部一帯から雲南におよぶ周辺領主とのつながりをも継承したものと思われ、このことは出雲西部に尼子氏の勢力を浸透させる上で非常に重要でしたが、これは同時に尼子家中における国久の政治的立場がきわめて強力なものとなることを示していました。

国久の権能は裁判権にまで及んでいたため、経久のあとを継いだ晴久はこれを制限する政策を打ち出しています。
しかし当然ながら国久はこれに反発したものと思われ、結果として国久と晴久が対立する事態となってしまいました。
そして天文23年(1554)、ついに晴久は国久粛清という強硬手段に及び、国久一族は滅ぼされてしまったのです。

イメージ 1 このことは、晴久が国久の権益に拠らなくても出雲西部を統治できる目処がたったために行ったものと思われ、以後塩冶郷は尼子宗家によって直接統治されることになります。
なお、国久の死によって尼子氏の軍事力低下を招き、結果として毛利氏に遅れをとったという評価がなされがちです。
しかし事実としては、尼子宗家が塩冶郷を直接統治できるようになったことにより、晴久は強力な経済的・軍事的基盤を獲得しており、尼子宗家の軍事力は格段に強化されたことは疑いありません。さらに、塩冶郷の地域的つながりから、三沢氏など出雲南部の領主に対してもより支配を強化することができたために統一的な出雲一国統治が可能となり、戦国大名としての領国支配体制はより充実したものになっています。

なお、このとき幼児であった国久の孫勝久は生き残り、晴久が保証人となって京都東福寺に移されて僧となっています。
そして尼子氏滅亡後、勝久は尼子旧臣らに擁立されて還俗、尼子再興を目指すことになります。

※写真は尼子国久父子の墓(安来市広瀬町尼子国久居館跡)

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