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阿太加夜神社は、八束郡東出雲町にある神社だ。
意宇川のほとりに位置している。
国道9号線出雲郷橋の東詰めに鳥居があるので、その存在は知っていたが、行ってみたのは今日がはじめてだ。
この阿太加夜神社の主祭神は阿陀加夜奴志多岐喜比賣命(アダカヤノヌシタキギヒメノミコト)というらしい。
この神様は大那牟遅命(オオナムチノミコト)の御子神とされ、古来からこの出雲郷(あだかえ)の地の守護神として祭られてきたようだ。
大那牟遅命とはすなわち大国主命のことで、大国主命はご存じ出雲大社の主祭神。
阿太加夜神社の社紋は「亀甲に有」。
亀甲紋は大国主命と関係のある神社、すなわち出雲国造家(出雲大社の社家)ゆかりの社紋に多く見られる。
意宇川をさかのぼるとすぐ上流は松江市大草町で、このあたりにはかつて出雲国庁があり、かつ出雲国造出雲臣の本貫地だった。
これらの事を勘案すれば、古来から阿太加夜神社が出雲国造家と深い関わりかあったということは想像に難くない。
そのこともあってか、古来から信仰をあつめてきた神社であるらしい。
この阿太加夜神社に、松江の城山稲荷神社の御神体を迎えて豊穣祈願をする祭がホーランエンヤだが、なぜ豊穣祈願をこの阿太加夜神社で行うのだろうか?
もともとホーランエンヤは、慶安元年(1648)に大飢饉がおこったため、時の松江藩主・松平直政が城山稲荷神社の主祭神(宇迦之御霊神・ウカノミタマノカミ)を阿太加夜神社に勧進して豊穣を祈願したのに始まるといわれる。
宇迦之御霊神はの「ウカ」とは穀物の意味で、ようするに穀物の神様。
この神様にお出ましを願うのはしごく当然だが、松平直政は、なぜ阿太加夜神社に勧進したのか。
松江を開府したのは堀尾吉晴という人だが、この堀尾吉晴が松江城を築くさい、阿太加夜神社の神主であった松岡兵庫という人が工事の安全と出雲国の繁栄のために八幡鎮守の祭をしたという。
松江城築城時、同時に城山稲荷神社が開かれたが、松岡兵庫は阿太加夜神社とともにこの城山稲荷神社の神主も兼ね、以来松岡氏が両神社の神主家となったらしい。
だから、松平直政が城山稲荷神社の勧進にさいして阿太加夜神社を選んだのだ。
しかしそうなると、今度はなぜ堀尾吉晴は阿太加夜神社に出雲国の繁栄を祈念させたのか、という疑問がわく。
普通に考えれば、そういったものは出雲一宮である出雲大社の仕事だろう。
出雲大社の政治勢力という側面に対する政治的意図があったのだろうか。
もちろんそういうこともあるだろうが、ではなぜ阿太加夜神社が選ばれたのか。
古代、この出雲郷という地は、山陰道と意宇川が交差する、水陸の交通の要衝だった。
さらに周囲には肥沃な田地が広がっていたが、これもすべて意宇川のもたらす恵みであった。
この意宇川は天狗山という山より流れ出る。
意宇川上流には熊野大社が鎮座しているが、この神社の祭神は熊野大神櫛御気野命(クマノノオオカミクシミケノミコト)という。
現在ではスサノオノミコトの別称とされているが、本来は別の神格だったとされる。
「クシ」は尊い、「ミケ」は食物の意味だそうだから、もともとは豊穣の神様だ。
おそらく、意宇川という恵みの川と、それが流れ出る天狗山そのものを神格化したものだろう。
同じく天狗山より流れ出る川に飯梨川があり、もともと堀尾吉晴が居城とした富田城の周囲に恵みをもたらしていた。
飯梨川の上流には山狭社があり、実はこの祭神もクシミケノミコトというらしい。
つまりは熊野大神と同じ神様だ。
堀尾吉晴という人は富田を愛した人で、松江を開いてからも「自分が死んだら富田に葬ってほしい」といったほど。
堀尾吉晴は飯梨川の流れを愛し、その兄弟川というべき意宇川にも親しみを持っていたのではないか。
そこで、堀尾吉晴は古代において出雲の中心を潤した意宇川の神に出雲一国の繁栄を祈願したかったのではないか。
ただ、かつて出雲大社を押さえて出雲一宮であった熊野大社は当時はまったく勢力を失っており、また山峡の地とあって不便であった。
そこで、山陰道に面し、意宇川下流域の守護神を祭る阿太加夜神社に白羽の矢を立てたのだ。
………と、ここまで書いてかなりこじつけだな〜と思った(笑)
でも、そうであったならば面白いかな、と。
とにかく、ホーランエンヤは直接は松平直政という人物がはじめたものだが、堀尾吉晴がいなければありえなかった神事でもある、ということは間違いない。
(追記)
ぐらんまさんより情報をいただきました。
堀尾吉晴が阿多加神社の松岡兵庫を松江城の神主にしたかについて。
松江城築城当時に奇怪なことが重なったのだが、当時祈祷が上手いとの評判であった松岡兵庫に、天守閣工事の祈祷を行わせてこれを鎮めようとした。
又、城山稲荷神社は松平直政が出雲国に入ってから、信州より勧請した。
ということで、なんだか僕の空想はただの空想に終わっていますね(苦笑)
勉強になりました。
(追記2)
シゲさんより情報をいただきました。
阿陀加夜奴志多岐喜比賣命について
同じような神様が、多伎神社にもいて、その名は「阿陀加夜努志多伎吉毘賣命 配 大己貴神」という風にオオクニヌシと一緒に祀られています。
出雲国風土記に出てくる神様なので、地元神とも言われていますが、なぜ多伎と東出雲といった離れた場所に祀られているか謎なのです。
一説には、カヤとあるところから渡来系の神だとも言われています。
またオオクニヌシの娘神に、「加夜奈流美(カヤナルミ)」という女神がいて、この神は下照姫(シタテルヒメ)と異なり、出雲には祀られている神社がほとんどないために、この女神と同神ではないかとも言われています。
ちなみにカヤナルミは、コトシロヌシ・アジスキタカヒコネ・オオクニヌシとともに、大和の天皇家の守り神として、三輪山周辺に配置されたと、「出雲国造神賀詞」には書かれています。
さすがはシゲさん、勉強になりました。
シゲさんのブログ「いずものこころ」
http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo
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何故堀尾吉晴が阿多加神社の松岡兵庫を松江城の神主にしたか?築城当時に奇怪なことが重なり、祈祷が上手いとの評判な松岡兵庫に天守閣工事の祈祷を行わせた。又城山稲荷神社は直政が出雲国に入ってから、信州より勧請した。という史実によるものです。
2009/5/21(木) 午後 9:32 [ ぐらんま ]
>ぐらんまさん
なるほど、さすがガイドさん。詳しいですね〜。
情報ありがとうございます〜。そして、僕の説はホントにただのこじつけでしかなかったわけだ(苦笑)というか、そういえばそういう話を聞いたことがあったなぁ……
でもやっぱり、そうなると出雲一国の守護神と自負する出雲大社にとっては、ますます面白い話ではないですね〜。やはり政治的意図もあったのでしょうか?
そのへんは何かご存知ですか?
2009/5/22(金) 午前 0:34
神格については、私はこの神は二つあるように思います。ひとつはご指摘の通り豊穣あるいは農業の神というもので、もうひとつは、港の神あるいは水神ではないかと考えられます。安来市の意多岐神社も農業繁栄の神とされています。意宇川による意宇平野の豊作を司った神かもしれないのです。もうひとつは、伎・岐というのは港や湾を指すという指摘があります。確かに、多伎町の海岸線には多伎漁港のように船留めに適した湾がたくさんありますね。また、東出雲でもこの神は中海から意宇川へと遡上するわけですから阿太加夜神社は、船着場だったとも考えられます。途中の、大橋川には売布神社があり、ここの女神も航海の神・水門(みなと)の神だとされています。つまり遠くの海や水路からやって来て、そこの土地の豊穣を約束してくれる神だったのではないでしょうか。
2009/5/22(金) 午前 9:06 [ いずものしげちゃん ]
>シゲさん
さすがはシゲさん、僕みたいに上辺の知識だけじゃくて知識の懐が深いですね。
八雲たつ風土記の丘資料館に、出雲国庁を中心とした意宇平野の復元模型があって目にした事があるんですが、意宇川には船舶が往来する様子を再現してあったような記憶があります。
意宇川は平野を形成した恵みの川であるという側面のほかに、水上交通にとっても重要だったというのは間違いないのでしょうね。
とくに物資の運搬となれば、陸上を通るより水上のほうが労力が少なくてすむ。これは現在もそうですが、舗装道路なんてない古代においてはなおさらでしょうね。
そうなると、水上交通の守護と繁栄を人々が願うのはあたりまえで、意宇川にゆかりのある阿陀加夜奴志多岐喜比賣命にそういった神格が付帯されていったとするシゲさんのお話しも説得力があるものです。
ありがとうございます!
2009/5/22(金) 午後 1:16