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前回までの亀井氏の話について、コメントにて色々のご指摘をいただきました。
こういったコメントをいただくのはなかなか嬉しいですねぇ。
鹿介と亀井氏との関係については前回で一応終了しましたが、今回はこのご指摘について検証してみたいと思います。
そういうわけで、今回は番外編ですので、かならずしも鹿介の話ではありませんのでご容赦を…
では早速ですが、ご指摘いただいた内容を検討してみましょう。
ご指摘を要約すると、
(1)以下の理由により、亀井秀綱の活動が月山富田城の戦い(1565年〜1566年)まで及んでいると確認できる。
●『森脇覚書』によれば、亀井秀綱は第二次月山富田城の戦いの途中に毛利に投降した。
●出展不明ながら第二次月山富田城の戦いの途中に杉原盛重との交戦中に討ち死にしたという説もある。
(2)鹿介のみならず湯新十郎の妻も秀綱の娘とされている。
(1)(2)の理由により、秀綱が1531年前後に死去したとするのはおかしいのではないか。
ということでした。
では、この内容について検討してみましょう。
まず、ご指摘にあった『森脇覚書』とはなにか、というところを調べてみましょう。
『森脇覚書』とは、吉川家代々の宿老を勤める森脇家の嫡流・森脇春方の口述書です。
吉川広家(吉川元春の三男で、毛利元就の孫にあたる)の命で作成され、吉川家から毛利家に進呈されたものです。
作成過程は吉川家の正史編纂事業と位置づけてよいもので、完成は1617年ごろだとされています。
ということは、それなりに史料を収集して記述したと考えてしかるべきですが、ただ、あくまで吉川家の歴史認識をあらわしているものであるということに留意しなければなりません。
さらに、あくまでこれは後世の記録である、ということに注意しなければなりません。いかに優良な史料であっても、一次史料と矛盾する内容がある場合には当然その箇所については誤りであるという判断を下さざるを得ません。
これを踏まえたうえで、次に一次史料群に目を通してみましょう。
一次史料においては、ある一族の当主が死亡もしくは隠居するまで、次代の当主となりうる人物が署名・宛名等であらわれることはほとんどありません。例外は感状や奉加帳といった種類の文書です。
亀井氏の場合も『竹生島奉加帳』には亀井安綱、亀井国綱のふたりの名が記されていますが、その他の文書については例外なく、次代当主の名があらわれた以後に前代当主の名があらわれることはありません。
私が亀井秀綱の死亡時期を1531年前後だと判断したのはまさにこの点で、1531年より亀井安綱の名が亀井氏当主としてあらわれているため、秀綱から安綱へ家督が移ったものと判断したのです。
もちろん、秀綱はたんに隠居しただけで、死亡したわけではないかもしれません。そして1566年頃まで生きながらえたという可能性もないわけではありません。
ただ、現存文書で1510年から名の見える亀井秀綱は、少なくともこの時点で元服していることから15歳を下回らない年齢だと思われます。そうなると誕生年は1495以前であろうと思われ、1566年時点では70歳を越える年齢です。
1560年代には久清という人物が亀井氏の当主として存在し、主体的に活動していたにもかかわらず、隠居した70歳の老人が、それを差し置いて積極的・主体的な行動をとるのはやはり少し不自然です。
また、山中鹿介がこの秀綱の娘を養女とした、ということであれば、少なくとも鹿介よりも年下の娘を亀井秀綱がもっていたことになり、通説によれば1545年生まれの鹿介よりも年下の娘を、はたして高齢の秀綱がもうけていたのかという疑問がわいてきます。
もちろん、可能性がまったくないわけではありません。ただやはり、通説にも跡取りに恵まれなかったとされる秀綱が、50を越える年齢にいたって娘をふたりももうけるのは、不自然な感をぬぐうことは出来ないと思うのです。
従って、私は亀井秀綱は1531年前後に死亡(もしくは隠居)し、また山中鹿介、湯新十郎の妻は亀井秀綱の娘ではない、と判断したわけです。
ただ、亀井秀綱の名が1560年代にいたっても登場するのは『森脇覚書』のみではなく、『雲陽軍実記』など様々な後世の文書に及んでいるのは事実です。
これはなぜでしょうか、やはり秀綱はこの時期までいきて、主体的な活動をしていたのでしょうか?
唐突ですが、ここで「諱(いみな)」について考えてみましょう。
「諱」とは、簡単に言えば本名のことです。
たとえば尼子経久の諱は「経久」です。
諱は「忌み名」の意で、通常は口にするのをはばかる名前でした。
したがって、たとえ主君であっても家臣の諱を呼ぶことはほとんどなかったようです。
では、呼ぶときにどうしていたのかといえば、「通称(字)」や「官名」を使いました。
尼子経久であれば、通称は「又四郎」、官名ははじめ「民部少輔」、のちに「伊予守」を称しています。
通常、無官の人物は通称で呼び、任官された場合(もしくは官途を自称した場合)は官名で呼んだようです。
ここで問題なのは、敵味方および主君臣下を問わず、通常は個人を指名するのに名字と通称(官名)を用いていたため、本名(諱)は一般にほとんど知られる事がなかった、ということです。
もちろん、書簡などを誰かに送るさいには自ら諱を署名しますから、それにより諱を知ることはできます。
したがって、対外交渉などで諱をさらす機会の多かった人物は、諱がわりと知られていたと思われます。
しかしながら、そのような人物に対してもやはり個人を指名するのには通称や官名を使っていたことには違いありません。
これをふまえて、亀井秀綱をみてみましょう。
秀綱の諱はもちろん「秀綱」で、通称は「藤兵衛尉」、1519年ごろより「能登守」の官途を名乗っています。
秀綱は、寺社を中心に尼子氏の一方の顔として活動しており、多数の書状が現存しています。
このため、秀綱は諱がよく知られていた人物であったのではないかと推測できます。
しかし、先に記したように、通常は通称(官名)で呼ばれますから、無官の時代には「亀井藤兵衛尉」と呼ばれ、のちに「亀井能登守」と呼ばれていたことは間違いありません。
つまりは「秀綱」の諱より「藤兵衛尉」「能登守」のほうがより知られていた、ということです。
ここで、1560年代に活動している亀井氏の当主・亀井久清に注目してみましょう。
亀井久清の諱はいうまでもなく「久清」です。
亀井氏代々の当主が「綱」を通字として用いていたことを考えると違和感のある諱ですが、「久」は尼子晴久から偏諱を受けたものと考えられるため、ひょっとすると久清も、もともとは「綱」を用いていたものを改名したのかもしれません。
そして久清はなんらかの官途を名乗った形跡はなく、通称は「藤兵衛尉」。
つまり、秀綱とおなじ通称なのです。
久清の活動期間は、現在する文書が少なく、確認できるのは1559年〜1562年の間だけです。
もちろん、当主であったのがわずか3年間であったというわけではないでしょうが、官途を名乗っていないことからも、当主となったのが1559年からさほどさかのぼらない時期であると思われ、活動期間もさほど長くなかったとは想像できます。
久清の登場する現存文書が少ないのは、たんに散逸した文書が多いというだけではなく、もともと発給文書が少ないのではないかと思われます。
したがって、久清の諱はさほど知られていなかったのではないかと想像できます。
ところが、「藤兵衛尉」の名は秀綱の通称としてネームバリューがあります。
当時の人が久清と秀綱を取り違えるようなことはありえないでしょう。
しかし、後世の人が「亀井藤兵衛尉」の名だけを見たときに、久清という人物を知らなければ、これを秀綱と勘違いしても不思議ではありません。
結論すれば、後世の文書で1560年代に秀綱が活動しているのは、実は久清の活動をあらわしたものである可能性が高い、ということです。
山中鹿介および湯新十郎の妻も、秀綱の娘ではなく久清の娘であれば年齢的にも無理はないでしょう。
というわけで、長々と書きましたがホントにまったく山中鹿介は直接関係ありませんでしたね……
まぁ今回はコメントいただいた内容について検証してみたわけで、ご容赦ください。
そしてまたこのようにコメントいただければ、それについて言及してみたいと思いますのでよろしくお願いします〜。
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確かに色々な軍記物には違いがありますね。ちょっと忘れたのですが湖陵の安子神社の看板にある亀井綱?は誰のことでしょうか?亀井氏は分家や庶家があり鹿之助との関係もあるのではないかと思います。
2009/8/11(火) 午後 11:14 [ やま ]
>やまさん
湖陵の安子神社の看板というのを見たことが無いのでなんとも言えないのですが…
とりあえず、尼子氏滅亡までに一次史料に出てくる亀井姓の人物は、秀綱、安綱、国綱、久清の4名だけです。
軍記などでは永綱、安綱、秀綱、利綱などの名前が出てきますが…その看板の人物がこれらのうちのいずれかなのか、あるいは全く違う人物であるのかはちょっと分からないです…
2009/8/15(土) 午前 1:45