|
「山中鹿介の虚実」のタイトルで連載を続けてきましたが、今回からテーマごとにタイトルをかえていこうと思います。
さて今回は、山中鹿介を語る上で欠かせない、尼子勝久について触れてみたいと思います。
尼子勝久とは、ご存知の通り月山富田城の落城により滅亡した尼子氏の遺臣たちが、お家再興のための旗頭としてたてた人物です。
勝久は再興の旗頭ですので、当然尼子再興軍の中枢にいた人物です。
しかし、山中鹿介のかげに隠れて目立つことがなく、尼子再興というテーマが語られるうえでもあまり突っ込んで触れられてこなかった人物ではないかと思います。
ではまず、勝久の概略について簡単にみておきましょう。
通説によれば、天文22年(1553)に生まれたとされ、通称は孫四郎、「佐々木系図」(佐々木文書)によれば尼子誠久の五男となっています。
「陰徳太平記」をはじめとする諸軍記によれば、国久・誠久の一族は富田城北麓の新宮谷に居館をかまえたことから「新宮党」と呼ばれたとされ、尼子氏の軍事力を支える最強の軍団であったとされています。
実際に、国久・誠久は尼子氏の本拠である富田荘に隣接する吉田荘を基盤に、経久の三男・塩冶興久の死後には興久の遺領である出雲西部の塩冶郷を領して、きわめて強力な権力を持ちました。
しかし、領国の支配強化を目指す尼子宗家の晴久と対立する結果となり、天文23年(1554)、晴久によって国久・誠久は滅ぼされてしまいます。
このとき勝久はまだ子供でしたが、家臣の小川重遠に助けられて難を逃れ、晴久の追及を避けるため備後国の徳分寺に入ったといわれています。しかし、やがて毛利元就が勢力をのばしてくると備後も危険になり、永禄9年(1566)に月山富田城が落城するにいたって京都の東福寺に入った、ということになっています。
東福寺に入るまでの経緯は他にもいろいろ説があるようですが、いずれにしても尼子宗家・毛利の二氏の追手を逃れて京に上ったことになっています。
ところが肝心の東福寺側の記録によれば、勝久が東福寺にはいった時の保証人は、勝久を追跡していたはずの晴久だというのです。
この「東福寺文書」の実際のテキストを見たことがないのでこれ以上詳しくはわかりませんが、どうやら尼子宗家の追及を逃れて京に潜伏したというよりは、宗家のほうが厄介払いのために京都に送り出した、といったほうが正解のようです。
その後勝久は東福寺で僧として過ごしていましたが、永禄11年(1568)、山中鹿介・立原久綱ら尼子氏の遺臣に擁立されて還俗、尼子再興のために挙兵しました。
挙兵後の動向についてはまた詳しく触れますが、出雲、因幡、播磨を転戦しています。
しかし結局尼子再興がかなうことなく、天正6年(1578)、播磨上月城で毛利軍に包囲され、自害して果てたのです。
|
勝久は東福寺ですが末弟通久はなぜだか乱世の梟雄や平蜘蛛で有名な松永弾正大弼久秀の鉄砲頭として仕えてます。それまでの経緯はどこにも正確に記されてません。通久の子・久邦もありますが…とにかく誠久の子供は諸説紛々ですね。それに敬久の子供はいないようで(豊久の子供は氏久?や娘がいるようで)…同じ兄弟なのに〜
2009/8/13(木) 午後 6:23 [ やま ]
>やまさん
そうそう、通久という名は何度となくめにするんですが、この人物が出てくる史料ってなんでしょうか?
とりあえず今まで目を通した中では小説くらいしか出てこないんです…ご存知でしたら教えてください。
2009/8/15(土) 午前 1:55
インターネットや小説以外に通久の正確な資料と言えばわかりませんが太閤記か信長公記に記述あると思います。1554年生まれとあり新宮党粛清時には胎内にあり京都へ逃れ新宮通久と名乗り松永氏、蜂須賀氏に仕えたようです。また鉄砲の名手と言われたようです。また子に久邦と言う者がおり豊臣秀吉に仕えます。また文禄・慶長の役の肥前名護屋城在番の名簿に尼子姓が三人います。ただ出雲国主の一門かは不明です。近江京極氏一門(京極高次の姉、秀吉の側室・松の丸の)かもしれませんが。通久の実父も敬久の嫡男、または次男、誠久の6男とバラバラです。もし通久が架空なら想像ですが氏久と同一ではないでしょうか?富田城落城以降勝久の挙兵まで所在が不確実ですし、時代が経つにつれて勝久の義兄(養子、誠久の嫡男だとしたら)だけど再興軍の一武将として格下扱いですから他人から見れば弟のように思えたでしょうし、氏久は童顔だったようですから。また氏久本人も新宮党粛清の遠因があったから他大名に引け目があったかも知れませんね。
2009/8/15(土) 午前 7:17 [ やま ]
>やまさん
なるほど、情報ありがとうございます。信長公記と太閤記ですね。。。いま思い出しましたが竹元春一著「上月城史」では勝久とともに自害する人物を通久としていた、と聞いたことがあるような。現物を目にしたことがないのですが。。。今後また記事をアップするにあたり、通久についても書けたらいいな。。。。
氏久についてもいろいろと言及してみたいと思っています。またいろいろお教えください。
2009/8/15(土) 午後 6:36
あと勝久の兄弟で諸説紛々なのが誠久の次男・季久ですが他の資料や小説では常久ともあります。どちらが通説なのでしょうか?その他にも経久の庶子である来島(森)親久があります。諸国を旅した末に毛利氏の食客となり吉田郡山合戦で戦死しました。別の庶子の塩満与久(1524ー1595)は側室の子供のためか居場所が悪かったようで益田藤兼に招かれたようです。国久の庶子、数久(経歴は全くわかりません)や上野守久幸の子供・経貞など尼子氏の家系にはあるけど不鮮明なものがあります。是非とも補足していってもらいたいです。
2009/8/15(土) 午後 11:30 [ やま ]
>やまさん
尼子経久はじめ、国久などの諸子の話はインターネットではいろいろ目にするんですが、その情報源というか出典が明らかでなくて、なんとも調べようがないんですでよね。
で、信長公記と太閤記を調べてみたんですが……信長公記は鹿介はでてくるものの勝久すら出てこない。しかも、上月落城についてはまったく触れられていなかったです。
で、太閤記については上月合戦については本文では触れられていなくて、「山中鹿助伝」でわずかに「又播州上月籠城中之働有」とだけ書かれているだけでした。
勝久は出てきますが、氏久も通久もいなくて、ただ「尼子助四郎」が因幡戦で登場していました。
2009/8/16(日) 午後 7:00
>やまさん
追記です。
「太閤記については上月合戦については本文では触れられていなくて」と書きましたが、巻四に上月城の次第の略記がありました。
が、いずれにしても勝久と鹿介(太閤記では「鹿助」)の名前のみが出てくるぐらいで、その他の尼子武将についてはふれられていませんでした。
いったい「通久」の出典はなんでしょう……???
2009/8/16(日) 午後 9:16