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ところでひとつ奇妙なのは、勝久の通称は孫四郎ですが、氏久の通称も孫四郎だとされていることです。
兄弟間で同じ通称を用いたという例はあまり聞いたことがありません。
となれば、系図の上では兄弟として記載されているものの、実際には氏久と勝久は兄弟ではなかったのでしょうか?
以前、kunikidamimizumanさん(当然ハンドルネームです)という方が「尼子久幸の子・詮幸が、新宮党滅亡後、その名跡を継承して尼子孫四郎氏久を名乗ったのではないか」という仮説を立て、「Yahoo!掲示板」ならびにご自身のブログでその論を展開しておられました。
残念ながら現在はブログは閉鎖されてしまたのでその記事を目にすることは出来ませんが、要するに詮幸が形式的に誠久の養嗣子となった、という考えです。
以前に私自身が氏久について書いたときにもこの説についてチラッと触れたのですが(私自身はこのときこの説について肯定的ではなかったので、触れるだけにとどめましたが…)、どうも記事が一人歩きして、ウィキペディアにも書かれているようです。
しかし「証如上人日記」天文二十年十月十五日条に、尼子晴久や誠久とともに「尼子孫四郎」が登場しています。
この孫四郎が氏久のことと考えられるため、新宮党滅亡前に尼子氏久は存在していることになりますから、新宮党滅亡後に詮幸が誠久の跡をついで氏久と名乗ったという説は成り立たなくなります。
もちろん、新宮党滅亡以前に養子に入っていたとすれば別ですが、系図上では誠久には他に何人も子供がいたことになっていますので、わざわざ養子を迎えることは考えにくいでしょう。
したがって、詮幸は氏久とは別人と考えてよいと思われます。
ほかにも、実は氏久は誠久の子ではなく、豊久(誠久の兄、もしくは弟)の子、または晴久の末子という説まであるようです。これらの説は具体的な論拠が不明なので肯定も否定もできません。
しかし、「孫四郎」の通称が国久、誠久と受け継がれたことを考えれば、次の「孫四郎」氏久はやはり系図のとおり誠久の子であると考えたほうがよいかもしれません。
これをふまえて勝久を考えてみると、勝久が孫四郎を名乗ったのは新宮党の当主であるという宣言でしょう。
そして、それ以前に兄氏久が父・誠久の死後、跡を継いで新宮党の当主となっていたものと思われます。
このため、前回の文言と矛盾しますが勝久は誠久の跡を継いだのではなく、形式としては兄・氏久の養子となって孫四郎を継承したものと考えれば矛盾なく説明ができるのではないでしょうか。
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お久しぶりです。私の卑説よりも説得力があります。「証如上人日記」の記述を見落としておりました。またウィキペディアで流された卑説を是正したく思っておりましたが、これでやっと落ち着けます。いちど白紙にしたら・・怒られちゃいました・・ありがとうございます。
2009/12/18(金) 午後 1:21 [ 安蔵 ]
>kunikidamimizumandさん
お久し振りです!
ウィキペディアで氏久の件が議論になっていたのは、この記事連載を書く直前くらいに知りました。
このBLOGでも氏久の記事で、kunikidamimizumanさんの氏久に関する考察を一部触れたために、記事を見た方が「定説」だと勘違いしたのかもしれません。
従って、この件は私にも責任があります。大変申し訳ありませんでした。
できましたらまたkunikidamimizumanさんのお考えなど知りたいです。
機会がありましたらお聞かせください。
2009/12/19(土) 午後 1:05