|
「尼子勝久と山中鹿介」というタイトルに反して、尼子氏久についてばかり触れている気がしますが、もう少し氏久の話を続けてみます。
諸軍記によれば、天正6年(1578)、氏久は勝久とともに上月城にて自害したことになっています。ところが、一次史料では少し様子が違っています。
天正六年七月十二日吉川元春自筆書状を見てみると、「尼子勝久・同助四郎方ニ腹ヲ切せ申候」と記されているのです。
先述のとおり佐々木系図によれば尼子氏久の通称は孫四郎、官途は刑部少輔であって、助四郎ではありません。
これはどういうことでしょうか?
ここから考えられるのは、吉川元春が氏久の名を間違えた、氏久が助四郎に改名した、系図が誤りで氏久の実際の名前は助四郎だった、切腹したのは氏久とは別の人物だった、という四つの場合です。
まず、名前を間違えた可能性です。
書状の写しなどでは写し間違いで名前が変わってしまうことがありますが、これは自筆書状ですので、間違ったとすれば吉川元春自身です。
しかし吉川元春は教養人として知られた人物ですので、間違いという可能性は低いのではないでしょうか。
当時は音があっていれば字は適当な当て字で書くことがままありましたから漢字の違いならばわかりますが、「助四郎」はどうやっても「まごしろう」とは読めません。
次に、氏久が助四郎に改名した可能性ですが、これも可能性は高くないように思われます。
通常、なんらかの官途を名乗った人物は、以後は通称ではなく官途を使いますから、通称をその後に変更するようなことがあるでしょうか。
系図が誤りであった可能性はどうでしょう。
系図史料は間違いがままあるものですが、氏久の場合、前述の「証如上人日記」に父・誠久と並んで「尼子孫四郎」として登場しています。
実は「氏久」の名が誤りであるという可能性はありますが、少なくとも誠久の子で勝久のほかに孫四郎という人物がいたということは確かです。
ということで、消去法でいけば最後の切腹したのは氏久ではない別の人物である、ということになります。
では、結局この「尼子助四郎」とはだれなのでしょうか。そしてこのとき、氏久はどうしていたのでしょうか。
|