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勝久とともに切腹した「尼子助四郎」が氏久ではないとすると、ひとつ気になる名前があります。
それが「尼子通久」という人物です。
妹尾豊三郎著『月山史談』ほか、妹尾氏の著作によれば尼子氏久の説明において「一本通久ともあり」としていて、氏久の別称が通久であるとしています。この記述は竹元春一著『上月城史』の記述を参考にしているようです。
この『上月城史』を直接見たことはないのですが、上月城開城に際し毛利氏が尼子氏側に提示した開城条件がよく色々な出版物に抜粋されており、それを目にしたことがあます。
これによると、氏久ではなく「勝久の舎弟通久」の切腹を毛利側が求めているのです。
豊三郎氏が氏久の別称として通久としたのは、上月城開城において切腹した人物であるから、という理由によるものでしょう。
気になるのは「舎弟」という部分です。
氏久は誠久の長男であり、勝久の兄です。
前述した「証如上人日記」の記述によれば天文20年(1551)の段階で元服が確認できるため、このときすでに少なくとも15歳前後でしょう。
したがって、生年は天文5年(1536)前後か、それよりもさかのぼると考えられます。
天文22年(1553)生まれとされる勝久からすれば、親子に近い年齢差で、じっさい私は勝久が氏久の養嗣子として孫四郎の名を継承したのではないかと推測しました。
にもかかわかず「舎弟」とは解せません。
竹元春一氏が何を典拠にしてこれを書いたのか分からないのですが、じつはこの記述がいいところをついているのではないかと思うのです。
おそらく竹元氏は、氏久という人物を承知の上で、その氏久とは別の人物として通久について記したのではないでしょうか。
実際、先述の吉川元春書状では、「同助四郎」と尼子助四郎を勝久より格下に扱っているようですから、助四郎が勝久の実弟ではないにしても、それに近い立場の人物だったことがわかります。
ちなみにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で検索してみると、通久については以下のように記されています。
尼子 通久(あまご みちひさ、天文23年(1554年)? - 天正6年(1578年))は、尼子誠久の六男(尼子勝久の弟)とも尼子敬久の子ともされる。子には尼子久邦。
家中を代表する鉄砲の名手だったという。尼子晴久の手で新宮党の尼子国久一族が殺害された為、他国に逃亡。蜂須賀氏の家臣と成り鉄砲頭となる。
1577年、尼子勝久・山中幸盛らとともに尼子氏の再興を賭けて毛利氏と戦うが、1578年の上月城の戦いで敗北し降伏。反乱の首謀者の1人として尼子勝久・尼子氏久・神西元通と共に自刃した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E9%80%9A%E4%B9%85
この記事の典拠となった資料がなんなのかが分かりませんので、はたしてこの記述が妥当なのかどうなのか判断できません。
「蜂須賀氏の家臣と成り鉄砲頭となる」というあたりは、たしか南條範夫著の小説『出雲の鷹』での設定なので、ひょっとするとほとんど小説からとった記事なのかもしれません。
「尼子久邦」という人物については目にした事がないので典拠が知りたいところです。
話が反れましたが、尼子助四郎の名が「通久」であったと断言はできませんが、勝久の族弟であった、ということは確かに言えると思います。
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こんばんは。ご無沙汰しています。
尼子の氏を聞くと亡くなった伯母を思い出します。
2009/8/24(月) 午後 7:48
>子猿さん
尼子氏の子孫はけっこう全国各地にいるみたいですねぇ。
戦国大名としては滅んでも、なんだかけっこうしぶとく生き残ったんですね。
2009/8/25(火) 午前 3:00