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では、勝久と助四郎が切腹したとき、氏久はどうしていたのでしょうか?
氏久がこのとき共に切腹していれば、前述「吉川元春自筆書状」にその旨が記されていているはずです。
同族の助四郎が切腹させられているのに氏久だけが切腹を免れたとはちょっと考えにくいですから、このとき氏久は上月城にはいなかったのでしょう。
となれば、すでに毛利に降伏していた、浪人していた、亀井茲矩らとともに羽柴秀吉の陣にいた、死亡していた、のいずれかです。
切腹が免れられないのに降伏が認められるとも思えないですし、浪人していたとするのも不自然です。
また、上月落城後、生き残った尼子旧臣たちは亀井茲矩を総帥として織田家臣団に組み込まれます。氏久が秀吉のもとにいたのなら、尼子家臣団は氏久のもとに集いそうなものなのですがそういった形跡はありません。
したがって、このときすでに氏久は死亡していたのでしょう。
もうひとつ、いままでの記述を否定してしまうようですが、氏久はそもそも尼子再興に参加していなかったという可能性もあります。
氏久の再興軍への参加は「雲陽軍実記」などの軍記にみられるだけで、一次史料にはあらわれません。
また、軍記でも氏久の具体的な活躍はほとんどありません。
もしかすると、再興軍に参加したのは当初から助四郎であって、これが氏久として伝わって軍記に記載されたのかもしれません。
ただ、私としては氏久はやはり尼子再興に参加していたのだと考えます。
すでに記したように、氏久は妹尾豊三郎著『月山富田城跡考』の巻末に記載されている尼子氏滅亡時の氏名(「尼子旧記」による)には尼子氏久の名前が無く、「雲陽軍実記」などによれば勝久の出雲入国時に再興軍に合流していることから、永禄9年(1566)の尼子氏滅亡以前に毛利氏に降っており、出雲国内に給地を得ていたのではないかと考えました。
『月山富田城跡考』の記述には尼子一族の氏名はいっさいありませんから、尼子一族は特別扱いで記載されていなかっただけかもしれません。
しかし、塩冶興久の子清久が、天文11年(1542)の大内氏による出雲攻撃のさい、大内氏に与同した可能性がある(天文十一年七月朔日「相良武任書状」による)といった例があります。
塩冶興久は経久と対立して敗死しましたが、清久がこれを原因として、塩冶興久の乱に与同した可能性の高い宍道氏とともに大内氏に与したものと思われるのです。
氏久は新宮党誠久の子で、晴久により父を殺された立場であることからすれば、清久と似たような立場にあったといえます。
諸軍記によれば氏久は、国久が誠久の弟敬久を偏愛したため廃嫡の危機を感じたため、晴久に訴えてこれが新宮党粛清へとつながったとされています。
これが事実であれば新宮党の滅亡は氏久にも責任がありますが、氏久としては新宮党の当主の座が確保できれば良かっただけで、一族の壊滅を願ったわけではないでしょう。
どちらにせよ、氏久が粛清を免れたのは氏久が国久、誠久らと一線を隔して晴久に与したことを意味するものとは思われます。
しかし、新宮党の勢力基盤であった塩冶郷は尼子宗家の直轄領となり、国久が領していたと思われる吉田荘の所領についても吉田氏に与えられたものと思われます(吉田四郎三郎宛永禄十二年八月十日「尼子勝久書状写」および「吉田氏知行分所付写」より)。
おそらく氏久が継承したのは塩冶興久の乱後誠久に与えられた多賀氏の旧領などで、新宮党の勢力は大きく減退してしまう結果となりました。これはもちろん晴久の狙いでしたが、氏久の望むところではなかったはずです。
このため、永禄2年(1562)からはじまる毛利氏の出雲攻撃のさい、清久の場合と同様に氏久も毛利氏に与同した可能性も捨てきれないと思うのです。
氏久の毛利氏への接近が事実であれば、当然ながら新宮党の威勢をとりもどすことにその狙いがあったはずです。
ところが、案に相違して毛利氏のもとでも氏久は厚く遇されることはなかったのではないでしょうか。
毛利氏の出雲支配は、基本的には晴久の代に構築された統治システムを継承していて、氏久の入り込む余地はなかったのです。
その不満が、氏久の再興軍への参加へとつながったのかもしれません。
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