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【名称】茶臼山城
【所在地】松江市山代町茶臼山
【形態】山城
【築城年代】不明
【築城者】不明
【歴代城主】村井伯耆守
【遺構】曲輪、堀切、石垣?
■登山レポート
昨日、買い物にいこうと外に出たのですが、あまりに天気がよいので「なんかもったいない!」という気分になり、例によって山城に行ってみることにしました。
今回行ってみたのは茶臼山城址。
松江市山代町に位置する中世の山城です。
かなり近所のお城なのですが、いままで行ったことがなかったので、今回が初登城。
登山口は山の南側と北側の2箇所ありますが、今回は北側から。
民家の裏手みたいなところでけっこう分かりにくい入口でした。
登り口は畑の脇を抜けるなだらかな斜面ですが、畑を抜けると突然急峻な斜面にかわります。
息を切らしながらしばらく登ると、ふたたび緩斜面に。
見張り台跡と思われる見晴らしのよい削平地や、やたら平坦で直線の道(馬場跡?)を抜けるとふたたび少しキツめの斜面。
NHKの電波塔のわきをとおると、その先には広めの削平地があり、つづけてけっこう大規模な堀切が。
堀切というのは山城によく見られる防御施設で、簡単に言えば空堀です。
近世の城にみられる水堀と施設としての目的はおなじで、敵の侵入を阻止しするこためのものです。
中世の山城は、堀といえば基本的にはこのような空堀でした。
堀切を越えてその先の急斜面を駆け上がれば頂上、主郭です。
主郭からは意宇平野が一望でき、宍道湖、中海も見通せました。
ただし、けっこう下草がボーボー生えてて、夏には向かないかも(苦笑)
あとで調べたところによれば、毎年6月に登山道の整備や下草刈りが行われるとか。
登るならその時期がおススメということですね……
さらに!
あとで調べたところによれば、主郭から少し下がったところから獣道を分け入ると、なんと石垣があったらしい!
見逃したあー……!
石垣があったということは、戦国時代も末期、毛利時代〜堀尾時代までこのお城は改修され続けていたということ。
石垣は、ほとんどが戦国時代最末期から作られたもので、ほとんどのお城にはなかったのです。
今度は南側から登って、ぜひ石垣も見てみようと思いまする。
■茶臼山城の歴史
茶臼山は、「出雲国風土記」に「神名樋野」として登場する山で、古くから神聖な山とされてきました。
山の南麓には古代山陰道が通り、近くに出雲国庁、国分寺など重要な施設があって、このあたりが古代出雲国の中心であったことがわかります。
武士の時代に入ると、守護所が能義平野の富田荘(安来市広瀬町)に置かれ、出雲国庁付近はさびれたとされてきましたが、近年ではこの国庁跡付近に守護所が置かれ、同時に近辺の山に防衛施設としての城が築かれたという説が主流のようです。
付近で城として最適な山は、この茶臼山くらいでしょうから、このとき茶臼山城ができたのかもしれません。
が、さらに最近の研究では、平家の所領が富田荘にあり、それを鎌倉時代の守護・佐々木氏が領したことが分かってきたため、また富田荘守護所説にもどりつつあるようです。
「雲陽誌」によれば、村井伯耆守が拠った城ということになっているそうです。
が、あいにくと不勉強でこの村井伯耆守がどのような人物なのかわからんです(苦笑)
また調べてみます。
いずれにせよ、茶臼山そのものは171メートルとそこまで高い山ではありませんが、周囲に高い山はなく周囲を一望でき、裾野には意宇平野が広がり、古代山陰道が整備されていて陸上交通の便がよく、付近には意宇川が流れて河川交通の便もよいという抜群の立地条件ですから、極めて重要な拠点だったはずです。
はずなんですが……
あんまり争奪の場になったとかいう逸話は聞きません……
なぜでしょう?
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「あらかねの土にしては、すさのおのみことよりぞ起こりける。」(古今和歌集仮名序)
あらかねとは通常、土の枕詞であり、この文章は、
「(和歌はこの日本の)地においては須佐之男命の時から詠まれはじめた。」
となる。
しかし、出雲国風土記で意宇郡安来郷の地名由来には「スサノオノ命が、ここに来て、こころが安らかになった。だから安来とつけた。」あり定住を決めた発言とも読める。
記紀においてはヤマタノオロチを倒した後、稲田姫命をめとり「八雲立つ出雲八重垣妻篭めに、八重垣つくるその八重垣を」と日本最初の和歌を出雲で詠んで定住を開始したという。
古代より、鉄の産した安来の地のことを「あらかねのつち」=(新しい金属(鋼)を産する地)と訳せばあらゆることに説明がつくのである。
2013/5/21(火) 午後 9:49 [ 語部 ]