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氏久が上月城の落城以前に死亡していたとすると、その死亡時期はいつごろなのでしょうか?
氏久の一族新宮党は、天文23年(1554)、晴久によって滅ぼされました。このとき幼少の勝久は免れ、京都東福寺で僧となったことは確実です。
諸軍記においては氏久もその後の活動が見られるため、氏久も殺害を免れたという見解が一般的ではありますが、一次史料においては活動をみることができないため、実際は殺されていた可能性もあります。
しかし私としては、やはり諸軍記に記されたように氏久はこのとき殺害を免れ、尼子再興に参加したのだと考えたいと思います。
ただ、再興軍合流後、氏久は間もなく死亡したのではないかと思うのです。
諸軍記によれば永禄12年(1569)年、勝久が島根半島千酌に上陸し忠山を拠点と定めると、氏久はこれに合流しますが、以降、氏久の名は天正6年(1578)の上月城の合戦まで明確には登場しません。
ただ、「甫庵太閤記」では因幡鳥取城の戦いにおいて「尼子助四郎」が「亀井新十郎」、「立華源太兵衛」(立原久綱)らとともに活躍したことになっています。「陰徳太平記」などでは氏久を「尼子助四郎氏久」としていますから、「甫庵太閤記」の助四郎も氏久のことを示すのかもしれません。
しかし、出雲での毛利との一大決戦であった布部山の戦いでも登場しなかった氏久が、突然因幡において将として戦っているのはおかしな話です。
何度か触れた「証如上人日記」に氏久の名が登場することからして、新宮党滅亡以前、氏久の名は中央にも知られていたことになりますから、それなりの人物であったはずです。
合戦となれば軍勢の一翼を担ってもおかしくないはずなのに、出雲での種々の戦いでは登場せず、決戦となった布部山でも姿がみられないとなれば、このとき氏久は軍中に存在しない、すなわち死亡していたか、合戦に出たくても出られないような危篤状態であったのではないかと思うのです。
となれば、因幡での戦い以後に諸軍記に登場する「尼子助四郎」や「尼子助四郎氏久」は、勝久に呼応した氏久とは別人であると思われます。そしてこれが、一次史料にみられる上月城で切腹した「助四郎」と同じ人物でしょう。
そしてもはやこれは想像にすぎませんが、この「助四郎」は氏久の実子なのではないでしょうか。
以前に触れたように、天文20年(1551)の段階で元服が確認できる氏久ですから、生年は天文5年(1536)年前後かそれ以前です。
氏久に子供がいたとすれば、勝久挙兵の永禄12年(1569)年ごろは十代前半から半ばでしょう。元服前か、元服後間もなくといった年齢であろうと思われます。そして因幡での戦いは天正2年(1574)ごろですから、一軍を率いていてもおかしくない年代となります。
天文22年(1553)生まれとされる勝久よりは当然年下であり、形式的に氏久の後継者として孫四郎の名を引き継いだ勝久との関係は、義理の弟ということになります。諸軍記において舎弟という扱いを受けているのも、これで筋が通ります。
思うに、氏久は勝久挙兵のころにはすでに病によって重篤な状態に陥っていたのではないでしょうか。
尼子旧臣たちが尼子再興の活動をすすめる上で、当然氏久にも打診があったのだろうと想像できますが、氏久が再興軍の旗頭に立てなかったのも、また前面に出られなかったのもここに原因があるのだと思います。
そしてその子助四郎は、いまだ旗頭となれるだけの年齢に達していなかったのです。このために勝久が旗頭に選ばれました。
いざ勝久挙兵となれば、これに呼応しなければ氏久は真っ先に攻撃を受けるでしょう。そうなれば病の身の氏久にはなすすべがありません。
そこで氏久は勝久側と連絡をとりながら、出雲において再興挙兵のための調整役をつとめ、勝久入国後は自らの所領を勝久に与えることで、再興尼子家の直接的基盤としたのではないでしょうか。
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凄い勉強になる記事ですね。。。
じっくり読ませていただきます。
2009/9/1(火) 午後 10:29
>くるみさん
かなり根拠の薄弱なことを書いてますから、話半分で読んでください(苦笑)
2009/9/2(水) 午前 10:22