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タイトルに反して氏久中心の話になってしまいましたが(鹿介にいたってはぜんぜん触れていませんが…)、最後に勝久を主軸に据えて、この話の締めくくりとしておきます。
『陰徳太平記』などの軍記をはじめ現代の小説でも、尼子勝久は再興軍の中にあって主体的な行動をとっていないように描かれています。
再興軍の活動はほとんど、山中鹿介が主導権を握り、立原久綱が全体の調整役を担って、その他の家臣団は「その他大勢」扱い、勝久は完全にお神輿扱いです。
実際のところはどうだったのでしょうか?
当時の発給文書をもとに、考察してみましょう。
戦国大名としての尼子氏が滅亡したのは義久の代ですが、その義久以前の尼子氏関連発給文書では、重要な案件において当主の単独署判のものが多数あります。
また、奉行人の発給文書も多数存在しますが、発行先によって特定の人物が署名しています。
これはつまり、当主の統括のものと、奉行人の統括分掌が明確に定まっていることを示しているものと思われます。
では勝久の出雲入国以降の文書ではどうでしょう。
現存文書がさほど多くないのではっきりとした考察はできませんが、勝久の時代では、感状や寺社領寄進といった文書は勝久の単独署判での文書発給がほとんどです。
しかし、その他の外部との連絡文書といったものは、家臣団が奉行人となり、その奉行人複数人が連署で発給した文書が多いのが分かります。
その奉行人連署も3人以上の連署で、5人以上の連署というのも珍しくありません。
そして、おおむね分掌が決まっているようではあるものの、複数の人物があちこちに顔を出しているようです。
このように、勝久の権限があまり強くなく、奉行人の統括分掌も明確ではないということを示しています。
このことから、勝久政権は家臣団の合議により運営されていて、その力関係も曖昧なものである、ということが想像できます。
では勝久の意向は反映されなかったのかといえば、けっしてそうではなかったように感じます。
家臣団の力関係が曖昧であるということは、突出した権力を持つ家臣がいなかったということです。
権力を裏付けるものはやはり軍事力・経済力であり、それを支えるものは所領ですが、再興尼子軍の家臣団の所領に大差がなかったということでしょう。
これに対し、勝久自身は氏久領であった所領を明確に保持していたと推測されるため、最低限の権力基盤があったのです。
したがって、勝久の意思が介在する余地は充分にあったのだと思われるのです。
しかし、このバランスはやがて山中鹿介によって崩されていくことになります。
その話はまた別題をたててお話していくことにしましょう。
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