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先日、天気が良かったので西谷墳墓群に行ってみました。
西谷墳墓群とは、島根県出雲市は大津町にある弥生時代後期から古墳時代前期の墳墓群で、国の指定史跡となっています。
現在、この墳墓群の一帯は「弥生の森公園」として整備されていて、隣接して博物館も建設中(来春会館予定)です。
なかなか整備が行き届いていて、ちょっとした芝生の広場もあるので、これからのピクニックとかにも良さそうです。
さて、この西谷墳墓群。
出雲市街南東部の斐伊川の西岸、標高40メートル程度の丘陵に位置し、現在までに32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されています。
これらの墳墓は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀にかけて作られたものと推定されます。
そしてこのうち、1〜4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓です。
四隅突出型墳丘墓とは、出雲地方を中心とした山陰地方に分布する、特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓です。
形としては方形で、その名の通り四隅が突出した独特の形状をしています。布団をかけたコタツの四隅をひっぱったカンジを想像すれば間違いありません。
ただし、必ずしも4つの隅が飛び出ているとは限らず、突出部は3つだったりすることもあります。
また、小型のものは四隅が突出してはいるものの、墳丘と呼べるほどの盛り土がないものもあります。先日紹介した、妻木晩田遺跡区にあるものなどはまさにコレです。
この四隅突出型墳丘墓はおよそ2000年前、弥生中期後葉から後期はじめにかけて広がりはじめたと推測されています。
当初は中国地方山間部で造営がはじまり、また方形台状の小型墳墓など他の墓制と並行して作られていて、大きさも大差はなかったようですが、徐々に出雲地方に拡散、そして大型化していったようです。
四隅突出型墳丘墓の拡散が始まった時期は、ちょうど簸川郡斐川町の神庭荒神谷遺跡や雲南市の加茂岩倉遺跡で大量の青銅器が埋納された時期とほぼ一致するようです。
したがって、この二つの事象には関連があると考えられます。
そして、やがて二世紀後半、弥生後期後半になると四隅突出型墳丘墓の優位性が確立し、それまでにみられなかったほどの大型の墳墓が出現します。
このような大型の四隅突出型墳丘墓は、出雲地方では東部の安来市荒島の塩津山墳墓群と、今回見た西部の西谷墳墓群で確認されています。
このことは、出雲地方の東西にそれぞれ有力な政治勢力が出現し、「王」と呼ぶべき指導者があらわれたというということでしょう。
今回見た西谷墳墓群にある西谷3号墓は、突出部を含めると一辺が50メートル、高さ4.5メートルにもなる大型なもので、まさに「王墓」と呼ぶにふさわしいものです。
墳丘上部には八つの埋葬施設が作られていましたが、そのうち首長が埋葬されたと思われる大型の墓穴には二重構造の木棺が納められ、棺内には水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉が発掘されました。
また、墓穴の周囲には4箇所の柱穴が発見され、首長の葬送の際に建てられた葬祭用のあずまやが建てられていたものと考えられます。
この西谷3号墓でとくに注目されたのは、出土した土器の中に吉備地方に由来する特殊器台とよばれる土器や、北陸のものとよく似た土器が多量に含まれていたことです。
つまり、西谷3号墓に埋葬された「王」は北陸の越や吉備といった遠隔の地方と交流をもっていたのです。
この西谷3号墓が作られた弥生後期後葉には、出雲から因幡にかけてのかなり広域にわたって四隅突出型墳丘墓を作る文化圏が成立していましたが、各地域の「クニ」のいずれかが突出した勢力をもち、この四隅突出型墳丘墓文化圏を統括していたという様相はうかがえません。
しかし、弥生時代も終末期になると、突出部を含めると一辺60メートルにもなる西谷9号墓が作られ、この卓越性がきわめて顕著になります。
この段階にいたって、この西谷9号墓の「王」を盟主として山陰地方に大きな政治連合が成立した可能性があるのです。
ところが3世紀後半、古墳時代の幕開けとともに、四隅突出型墳丘墓は一斉に姿を消してしまいます。
かわって造営されはじめたのは古墳という形態の墳墓で、これは山陰地方が大和政権の勢力下にはいったことを意味するものでしょう。
四隅突出型墳丘墓文化圏内でも各地域によって異なる形態の古墳が作られるようになり、四隅突出型墳丘墓文化圏は解体されてしまうのです。
出雲東部、荒島墳墓群を造営した政治勢力はいちはやく古墳の造営をはじめ、巨大な方墳を造営しています。
ところが出雲西部の西谷墳墓群の政治勢力は、西谷9号墓のあとを継ぐような大型古墳は作っていません。
詳しい事情はわかりませんが、大和政権の勢力伸長に対して抵抗し、滅亡してしまった可能性があります。
『古事記』には、ヤマトタケルノミコトが出雲の豪族イヅモタケルを「肥川」のほとりでだまし討ちにした話がのっています。
また『日本書紀』には出雲のイヅモノフルネが大和政権に通じた弟のイイイリネを「ヤムヤの淵」で謀殺し、このため大和の征討を受ける話があります。
肥川はすなわち斐伊川、ヤムヤとは塩冶のことで、いずれも西谷墳墓群周辺の地名ですから、この二つの話は西谷墳墓群の政治勢力と大和政権との争いを反映した伝承がベースになっているのかもしれません。
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古墳時代も安来の方では四隅突出墳丘墓の特徴を残した大型方墳が出来、荒島地域には古墳時代前期全国最大級の造山古墳が出現したらしいですね。一方、西谷の勢力は移動したのか滅んだのか分かりませんが古墳をあまり作らなくなった。
2010/12/12(日) 午後 2:33 [ ユウキ ]
>yuukiさん
そうですね、弥生時代晩期に西谷のほうが優勢になった可能性がありますが、その後は荒島のほうがヤマト政権と結びついてゆうせいになったのでしょうか。これが国譲り神話やイヅモフルネ・イヅモイイイリネの話に象徴されているように思えます。
2011/1/24(月) 午後 0:01
安来その名前をスサノオノミコトに命名され、古事記神話のオノゴロ島なる十神山やイザナミ大神の神陵である比婆山もあり、古代王権があったことをうかがわせる地ですね。
2014/2/6(木) 午後 6:57 [ 鳥髪 ]