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昨日は聖バレンティヌスにちなむバレンタインデーでしたな。
聖バレンティヌスはローマ皇帝が禁じた兵士の結婚を祝福したために処刑された人物だそうで、そのために「恋人たちの守護聖人」とされているのだとか。
まぁ今回の記事とはなんの関係もないですが(笑)
さて今回は、坂本龍馬が修行した千葉定吉道場の若先生、千葉重太郎をとりあげてみましょう。
【千葉重太郎】(ちば じゅうたろう)1824〜1885
千葉重太郎、諱は一胤(かずたね)。
父は、坂本龍馬が剣術修行したことで知られる桶町千葉道場の道場主・千葉定吉です。
ということは、当然ながら北辰一刀流の剣客です。
では、重太郎の剣の腕前はというと、さほどでもなかったという説もあり、いやいやそうではなくて相当なものだったなどとする説もあり、まぁイロイロ言われているようです。
本当のところはどうなのかは分かりませんが、嘉永6年(1853年)に父・定吉が鳥取藩の剣術師範に就任して鳥取藩江戸屋敷詰となり、道場は重太郎に一任されています。
定吉の立場になって考えれば、わが子とはいえそれなりの腕前がなくては道場を任せたりはしないでしょう。
師範に実力がなければ門人に侮られ、道場は繁盛しません。本家筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退した例もあり、師範の実力が道場の盛衰に直結する時代であったということは間違いありません。
しかるに千葉道場は繁盛していますから、重太郎の実力は推して知るべし、ですね。
ドラマ『龍馬伝』では定吉がけっこう道場に出て来てますが、坂本龍馬が千葉道場に入門したときは、上記のような理由で道場は重太郎に任されており、龍馬に剣術指南をしたのは主に重太郎であったと考えられます。
まぁ、ドラマでも実際に門人に剣術を指導するシーンはほとんど重太郎でしたから、そのへんきちんと考証してあるのかも?
その後、万延元年(1860年)には重太郎自身も鳥取藩に仕官しました。
千葉道場のこともあるので、江戸詰めの藩士です。
そして、重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で、勝海舟の開国論に反感を抱くようになったとされています。
当時は攘夷(外国勢力の排斥)思想が常識で、さらに千葉道場には尊皇攘夷をとなえる若い門人たちが多く集ったことから、重太郎もそれに感化されていたのかもしれません。
そして文久2年(1862年)、重太郎は龍馬を伴い勝邸を訪れ、これを暗殺しようとしたといわれています。
とけろが、肝心の龍馬が勝海舟に感化されてしまい、重太郎を止めたために暗殺は失敗におわります。
ともあれ、理由はどうあれ重太郎は坂本龍馬と勝海舟を引き合わせたことになります。
これによって龍馬は開眼し、維新回天へと突進むことになります。
さて、その後の重太郎はというと、後年の戊辰戦争で鳥取藩の歩兵頭として一隊を率いて出陣、活躍します。
維新後は鳥取県・北海道開拓使・京都府の官吏などの職を歴任、活躍しています。
ちなみに、重太郎の門人であり友人でもあり、妹さな子の許婚でもあった坂本龍馬。
彼が千葉道場で得た武芸目録は「長刀目録」です。つまり、ナギナタですね。剣術ではないのです。
現存する目録はこれだけなので龍馬の剣術の腕前は実際には分かりませんが、剣術の腕も確かで皆伝を受けていたが、目録は幕末の混乱で散逸したのだ、とも言われています。
事実はわかりませんが、龍馬は剣術道場の娘の許婚といわれたほどの男、やはりそれ相応の腕前はあったと考えていいかと思います。
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