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戦国時代の民衆が戦争を前にいかにして財産を守ったかということを、城と民衆との関わりを主軸に解説したもので、なかなか面白かったです。 この本を読むまで僕の中では、城と言えばその地方の軍事拠点・政庁であり、権力者のためのものというイメージがありました。 ところがこの本によれば、洋の東西を問わず城には民衆の避難所が設けてあり、いざ戦争がおこると城主は民衆を城内に匿い、そのかわり、民衆は城主に対して労働力や金銭などを税として納めたのだそうです。 日本の場合も、相模の後北条氏の例では城内に避難所が用意してあり、民衆は戦時には城内に避難できるようになっていたようです。 そしてかわりに、民衆は城の修繕・改修の責務を負ったというのです。 民衆の避難所という観点で城をみた事がなかったので、この話は意外でした。 残念ながら具体例は北条氏の城しかありませんでしたが、北条氏の支配領域ではこのような城と民衆との関係は普遍的なものであったようです。 ところで、城といえば堅固な石垣で作られたものを思い浮かべがちですが、実は石垣が普及したのは戦国時代も末期の16世紀中葉以降だとされています。 まず佐々木六角氏の居城・観音寺城(滋賀県)で近世の城石垣の先駆ともいわれるものが築かれ、これが織田信長の安土城に受け継がれ、その後西日本を中心に広がっていったのだそうです。 しかし、関東地方では石垣に適した石材の産地が少なく、近世にいたっても石垣を持たない城がほとんどであったそうです。 石垣を使わない城とはどういうものかというと、山の緩斜面を削って人工的に急斜面をつくり(切岸といいます)、またそのさいに出た土を盛上げて突きかため、土居(土塁)を作って城の防御にあたる、ということになります。 こうした土の城は、ムリヤリ人間の手で地形をかえたものなので、風雨に弱く、定期的に補修しなければならなかったようで、この作業に民衆が駆り出されていたのです。 駆り出されていた、と書きましたが、本の北条氏の例ではかなりの程度、修繕は民衆の自主性に任されていたようで、強制労働というカンジではありません。 これはやはり、いざ戦争となれば城内に避難することが前提であったわけです。 自分が生き残るための城なのに、手を抜いては自分が危ないですからね。 具体例が北条氏しかなかったので他の地域では城が民衆の戦時避難所として機能していたかどうかはわかりません。 ただ、石垣の城が出現する以前はどの地域でも基本的に事情は変わらないと思いますので、城のメンテナンスはどこでもかなり頻繁かつ定期的に行われていて、その作業には民衆があたっていたことでしょう。 民衆にとっては忙しい農作業の合間を縫っての作業になるわけで、無条件で労働に駆り出されていては暴動がおきそうなものです。 そう考えてみれば、全国どこでも、民衆は城のメンテナンス作業を行うかわりに、戦時には城内に匿われていたと考えてもよいのではないのではないでしょうか。 そういえば、尼子詮久が吉田郡山城を攻撃したさいには、城方の毛利元就は領民を城内にいれて籠城したといわれていますし。 ところで、その吉田郡山城を攻撃した尼子詮久。 尼子詮久の居城といえば月山富田城です。 富田城址には現在、多くの石垣が残されていますが、城郭石垣の出現時期を考えれば、尼子氏時代の富田城には石垣はなかったのでしょう。 尼子氏が近江佐々木氏の流れをくむ関係から、もしかすると近江の先進的な城郭建築を取り入れて石垣を使っていた可能性も考えられなくはないですが、それでもごく一部に限られていたものと思います。 ともあれ、石垣があってもなくても、富田城の規模を考えれば城の維持管理には相当な人手が必要であったにちがいありません。 となればやはり、城のメンテナンスには領民が駆り出されていて、また、戦時には民衆は富田城内に匿われることが約束されていたにちがいありません。 しかしここで、疑問が浮かびます。 民衆は、富田城のいったいどこに避難したのでしょうか? 富田城内を歩いてみれば分かりますが、かなりの規模をもつ城とはいえ、ひとつひとつの郭(曲輪)はそんなに広くありません。 いや、広い郭もありますが、いずれも種々の建物が建っていたり、または軍勢集結の場と考えられる郭で、民衆が入る余地があるようには思えないのです。 まさか城主の居館に領民が上がり込むわけにはいきません。 富田城は実際に大内氏や毛利氏の攻撃を受けていますが、そのとき領民はどこに避難したのでしょう? ここで、ひとつ注意が必要です。 今現在の月山周辺の地形と、戦国時代の月山周辺の地形は同じではないのです。 富田城のすぐ脇を流れる富田川はもともとは現在の広瀬町の市街地を流れており、江戸時代におきた洪水により河道をかえて、現在の位置になったのです。 現在の富田川の位置には富田城の城下町が広がっていました。 また、現在は跡形もない郭がほかにも昔の絵図に描かれています(これとて江戸時代の想像図ですが)から、現在の城郭範囲よりもさらに外側に城郭が広がっていた可能性があります。 たとえばよく知られている消滅した郭としては、里御殿平と呼ばれる郭があります。 この場所は、今は周辺に作られた道路よりも低い場所に位置していますが、かつてはかなりの高さの土塁ないし石塁の上に作られていたそうです。 もとの市街地の高さが現在の富田川の河床ですから、それを考えれば納得できます。 里御殿平には、平時使用したとされる城主の居館があったと考えられるのでここに民衆が避難したわけではないでしょうが、他にも外郭があったとすれば、そこが民衆の避難所として使用されたのかもしれません。 また、越前朝倉氏の一乗谷城の例を考えてみると、一乗谷城の城下町はその名も一乗谷という谷間に作られていて、谷の入口には巨大な防壁が築かれていたといいますから、谷間の町そのものが城の外郭だったわけです。 富田城を見てみると、登城口のひとつ、大手にあたる菅谷口はその名も菅谷という谷になっていて、谷の入口は北側しかないため、入口を封鎖すれば敵は入り込めません。 ほかにも北麓に新宮谷、南麓に塩谷という谷間があり、同じように入口を封鎖すれば敵は入り込めません。 ただ、菅谷が富田城郭の一部を形成していることを考えると、一乗谷と同様に谷間を避難所として活用したとすれば、菅谷を利用したと考えたほうが自然かもしれません。 残念ながら、富田城外郭は私有地と化して田畑になっている箇所がかなりあって、おそらくそうした場所は発掘調査がなされていないことでしょう。 富田城の外郭を詳細に調査していけば、きっとイロイロ面白い発見があるにちがいありません。 |

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