|
尼子詮久(生没年不詳)尼子高久の嫡男。出羽守。父・高久の跡を継いで近江国犬上郡甲良荘尼子郷を領し、近江尼子氏の祖となった。
応永5年(1398)6月、近江国犬上郡甲良荘尼子郷、および出雲国大原郡内の所領が父・高久に給与されます。高久はこの地に住し、在地名をとって尼子氏を称しました。
このうち出雲の所領は出雲守護代となった弟・持久が継ぎますが、尼子郷はこの詮久が受け継いで近江尼子氏の祖となりました。『佐々木系図』にも、詮久に注して「江州尼子」、弟・持久に注して「雲州尼子」とあります。
近江尼子氏は、出雲尼子氏の影に埋没してしまい、あまり知られていません。詮久についてもその事績はあまり明確ではありません。
しかし今日、尼子郷のあった滋賀県の甲良町には高久以来の居館跡・尼子城跡が残っており、江州尼子氏が戦乱の時代に存続していたのは確かなようです。
この尼子城跡にある『尼子城案内板』によれば、「(前略)本家京極家の居城勝楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です。(高久の)嫡男出羽守詮久以降尼子氏の居城として、南北朝の動乱期、京極家の有力連枝旗頭として重きをなしていた」とあります。
実際には、高久の尼子郷相続が応永5年(1398)で南北朝統一は明徳3年(1392)ですので、南北朝時代を尼子城で戦ったとするのには無理がありますが、詮久が京極一門衆として重要な位置にいたことは事実でしょう。
『尼子城案内板』には続けて「打ち続く戦乱で城は落ち、一族家臣たちは四散したと考えられるが、山陰・山陽に覇を握る分家の雲州尼子氏を頼り彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています」とあります。
これはつまり、以後の応仁の乱からはじまる戦国時代の到来によって、主家・京極氏の没落とともに近江尼子氏も没落せざるを得なかった、ということでしょう。
なお、京極氏の内紛に乗じて北近江の覇権を握った浅井亮政は、「尼子馨庵」なる人物を妻(側室)としています。浅井亮政は出雲尼子氏とも交流があったようなので、馨庵は出雲尼子氏の出かもしれませんが、近江尼子氏の出である可能性も否定できません。
また、羽柴秀吉の馬廻衆として尼子三郎左衛門、尼子寿千寺、尼子宗澄などの名前を見ることが出来ます。これらの出自は明確ではありませんが、もしかすると近江尼子氏の末裔なのかもしれません。
|
非常に興味深いですね!
出雲ばかりが有名ですが、近江の尼子は実態が知られていないため
貴重な文章でした。
浅井亮政が尼子にとって替わるには、尼子の血がほしくて
利用したのはうなずけますね。
ぽち☆
2008/8/2(土) 午後 2:14 [ - ]
>やまたろうさん
はっきりりって滅亡した家というのはぜんぜん分からないことだらけです(苦笑)
浅井氏と縁戚にあった尼子氏も、実際のところどこの出自であるのかさっぱり分かりません…
浅井氏が天下でもとっていれば、あるいは史料が残っていたかもしれませんが。
2008/8/2(土) 午後 6:27
浅井亮政の側室の尼子は尼子経久の四女です。尼子一族の系図によると経久の娘は北島、千家、湯原、浅井、黒田(播磨の豪族)となっておりますよ。
2011/9/4(日) 午後 8:54 [ 一族会員 ]