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尼子持久(生没年不詳)尼子高久の次男。四郎左衛門尉・上野介・刑部少輔。出雲守護代。京極高詮の守護代として出雲国富田城に拠り、出雲尼子氏の祖となった。
明徳3年(1392)、主君である伯父・京極高詮が山名満幸討伐の功により、出雲・隠岐両国の守護に任じられます。高詮は侍所頭人として幕府に出仕するために出雲には下向せず、かわりに守護代を置くことになります。このとき白羽の矢がたったのが持久で、同年、出雲国富田城にはいったとされています。
しかしながら、父・高久が尼子郷を領したのが応永5年(1398)のことで、実際に持久が出雲に下向したのはこれ以降のことだと思われます。
ともかく、持久は出雲守護代となって出雲国を治めることになりました。
この頃の出雲国は、前領主・山名氏の影響が色濃く残っていたようです。明徳の乱で没落したとはいえ、長年山陰の覇者として君臨してきた山名氏の力は、そう簡単にぬぐえるものではありません。
持久の事跡はあまり史料として明確にあらわれてきませんが、守護代として京極氏の支配拡張につとめたものと思われます。
高詮は、先の山名満幸討伐に強力して功のあった三刀屋氏を厚遇し、あわせて他の国人領主達との繋がりを深めるなど、諸領主に対する懐柔政策を取っています。当然、守護代である持久が京極氏の代理人として行動しているものと思われます。
また当時、三沢氏などの一部の国人は表面上京極氏の支配を受けましたが、持久はその懐柔に苦慮したようです。三沢氏は雲南地方に勢力を持つ強力な国人で、京極氏からも三沢氏の動向に注意するよう、たびたび書状が送られているようです。
また、領内の主要な寺社の統括も持久の重要な職務でした。高詮の方針によって、杵築大社(出雲大社)に多くの領地の寄進したり、次いで古刹・鍔淵寺に対しても所領安堵・賦役の免除などを行うなどして懐柔政策を施しています。
『日御埼神社文書』によれば、正長元年(1428)および永亨十一年(1439)、大社国造家が大勢を率いて日御埼に発向し、種々も狼藉を働き、尼子四郎左衛門尉の「御成敗」もきかず、永亨十一年十一月に再び乱入し、段別・棟別銭を取るなど言語道断の悪行におよんだ、とあります。
この四郎左衛門尉が持久のことと思われ、寺社に対する懐柔策とともに、こうした寺社間紛争の調停を行っていたことがわかります。
このように、持久は守護代職を無難につとめていたようです。
しかしながら、もともと出雲に地盤のない尼子氏が守護権限を活用するには限界がありました。このため守護権限の一部は古志・松田・三沢などの有力国人が代行し、尼子氏が京極氏の代理として全体の調整を図っていた、というのが実態だったと思われます。
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尼子の出雲入部の前期のことがよくわかりました〜♪
三刀屋や三沢の国人はこの時にも重要なポイントとなる
部分だったのですね! ぽち☆
2008/8/10(日) 午後 1:30 [ - ]
>やまたろうさん
持久についてもホントはイマイチわからないんですよ。やはり明確になってくるのは清定からですね…
2008/8/13(水) 午前 2:40