山中御殿

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尼子久幸

尼子久幸(1473〜1541.1.13)尼子清貞の次男。母は真木上野介朝親の娘。孫四郎・義親・義勝・下野守・治部少輔。兄・経久を助けて尼子氏の勢力拡大につとめた。

 文明16年(1486)、兄・経久が富田城を追放されます。追放された経久は、久幸を連れて母の実家・真木朝親のもとへ逃れます。この後、経久は富田城奪還のため、旧臣たちとの連絡をとりはじめますが、久幸はまだ幼かったために出雲を出、安芸守護・武田元繁のもとに身を寄せたと言われています。

 元繁の居城・銀山城で元服した久幸は、文明18年(1488)に経久が富田城を奪還すると出雲に戻り、以後兄を助けて活躍することになります。その後、久幸は元繁の娘を妻に娶り、大永5年(1525)7月に武田氏が大内義隆の攻撃を受けるとこれを助けて奮戦しています。

 久幸は冷静沈着な武将で、勝ち目のない戦には消極的でたびたび兄・経久を諌めたといわれます。その気質を頼りにしていた経久は嫡男・政久の討死後、家督を譲ろうとしたほどです。このとき久幸は、経久を諌め、甥・国久とともに政久の子・晴久の後見となります。

 天文6年(1537)、経久が晴久に家督を譲るとその補佐役となります。血気にはやる晴久は、当時勢力をのばしつつあった毛利元就を討伐しようと企画、軍義に諮ります。家臣団の大半が毛利攻めに賛成する中、元就の才能と背後の大内の存在を指摘し、ただ一人異議を唱えます。

 久幸は、毛利を倒すためには周到な準備が必要であるとして、次のように献策します。
「まず、石見津和野方面に自分が、備後三次方面には国久が出征して諸城を固めて周辺領主を慰撫する。
晴久自身は赤穴に出て安芸の毛利勢の動きをうかがえ。元就が出陣してくれば国久と挟み撃ちにして撃退し、篭城すればそのときこそ全軍をもって郡山城を包囲する。山口の大内氏は自分が軍を率いて牽制するので、警戒して来援することはあるまい」
 しかし晴久はこの策を一蹴、さらに久幸を「臆病野州」と罵倒して吉田郡山城攻めを決定してしまいます。

 天文9年(1540)6月、晴久はついに出陣、久幸は屈辱に耐えてこれに従います。結果は久幸の予見したとおりで、元就の巧みな采配に尼子勢が攻めあぐねているうちに陶隆房率いる大内軍が来援します。天文10年(1541)1月、ついに両軍は激突し、尼子軍は大敗北を喫します。
 このとき久幸は「臆病野州の壮烈なる死をとくと見よ」と叫んで毛利軍に突入します。久幸は大内軍の武将数十名を討ち取る活躍を見せますが、ついに毛利の武将・中原善左衛門の矢に倒れ、壮絶な最期を遂げました。
 法号は興国院殿無塵全可大居士。遺体は吉田に葬られましたが、後年墓石のみ出雲城安寺に移されています。

閉じる コメント(6)

「久幸が臆病なら勇気あるものはこの世にいない」と
元就公に言わしめた名将ですね!

晴久に欠けていた「冷静沈着さ」があるので、尼子にとっても
重要な人物ですね〜♪

ぽち☆

2008/8/16(土) 午後 8:39 [ - ]

>やまたろうさん
実は久幸という人物はその事蹟がほとんど後世の著作によるもので、一次史料にはほとんど名前がでてきません。
諸軍記では経久を支えた忠良の臣ということになっていますが…
実際の尼子家中での位置付けはどうだったんでしょうかね…

2008/8/23(土) 午後 9:15 佐々木斉久

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はきめまして。一尼子ファンです。
早速ですが、今まで尼子氏に関するものをいろいろと読んできましたが、久幸は、経久の弟の子なのではないでしょうか。
年齢的に考えるに経久の弟とするよりも、弟の子のほうがピッタリはまるような気がしてならないのですが。竹生島奉加帳の尼子一門の記述でも国久、誠久の次になってますし。どう思われます?

2010/5/16(日) 午後 0:41 [ がっさん ]

>19erさん
はじめまして!コメントありがとうございます!
さて、ご指摘の件ですが、まっことその通りですき。
このBLOG、昔に書いた記事はけっこう誤りが多いです…昔の本を見て、その頃の研究水準で書いてあるためです。
久幸については、ご指摘にあった「竹生島奉加帖」に名前が現れる他には吉田郡山城合戦で戦死したことがわかるくらいで、そのほかの同時代の史料には登場しません。
そのため、この記事はもっぱら「雲陽軍実記」など後世の軍記などの記述をもとに作成しています。経久の弟となっているのはそのためです。
しかしながら「佐々木系図(佐々木文書)」ではしっかりと経久の弟・源四郎の子として久幸の名前があります。
まぁ系譜史料というものも後世に作られたものなので鵜呑みにするわけにはいきませんが……吉田郡山城に久幸が従軍したことを考えれば、老体の経久とさして変わらない年齢での従軍は考えにくい。
これは「佐々木系図」の記述が妥当であろうと思います。

2010/5/16(日) 午後 8:11 佐々木斉久

顔アイコン

ご回答ありがとうございます。久幸の年齢の件、であれば軍記物に書かれている政久の死後、家督を久幸に継がせようとしたとか、所謂臆病野州の話などはまったく成立しなくなりますね。 いろいろわからない点が多いことも尼子の魅力だと思います。

2010/5/16(日) 午後 10:45 [ 19er ]

>19erさん
「雲陽軍実記」は尼子家臣の河本隆政が記したとされていますが、明らかに史実とは違う記述が多々ありますから、注意が必要です。
久幸なんか、諱からして違いますからね…
でもホント、謎が多いからこそ解き明かす楽しみはありますよね。

2010/5/19(水) 午前 10:31 佐々木斉久


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