|
尼子経貞(1521-1581)尼子久幸の子。母は武田元繁の娘。孫四郎・玄蕃亮。父の戦死後、従兄・尼子国久と対立し、内紛の原因となった。
天文9年(1540)、当主・尼子詮久(晴久)は毛利元就討伐のために、吉田郡山城攻撃を決定します。父・久幸はこれに反対し、石見・備後の諸城を落とした上で徐々に包囲すべきだとしましたが、詮久はこれを却下してしまいます。
こうして同年9月、尼子軍は総力をあげて吉田郡山城に進軍しました。経貞は、父・久幸とともに晴久に従って出陣します。
しかし、吉田郡山城の防備は思いのほか堅牢で、毛利軍の軽快な動きに尼子軍は翻弄される形となり、相合口・青山などの各戦線では尼子方の敗北が続きました。さらに、本国の空白を見て、以前に伯耆を追われていた羽衣石城主・南条宗勝が因幡山名氏の後援を受けて伯耆への侵攻を開始したため、軍を割いて
防衛に向かうなどしなければならず、郡山城の攻略は難航します。
こうして攻めあぐねているうちに、翌年正月には陶隆房(晴賢)率いる大内軍が来援、尼子軍との前面衝突がおこります。尼子軍は長期の在陣と物資の不足により士気があがらず、大敗北を喫します。父・久幸も詮久を守って戦死してしまいます。経貞はなんとか生き延び、詮久とともに夜陰にまぎれて軍をまとめ、出雲に帰国しました。
出雲に帰還すると、経貞は正式に家督を継ぎました。しかし、このとき経貞がまだ若年であったため、主君・晴久(詮久より改名)は、経貞が成人するまで所領の管理を国久に命じました。
その後、大内氏の侵攻を撃退して晴久は勢力挽回に腐心、国久がそれに大きく貢献します。国久は一族を新宮党と称し武の要となりましたが、この活躍のために国久の発言力は大きくなり、暴走をはじめてしまいます。
経貞はやがて成人しますが、増長した国久はそのまま所領を横領してしまいます。当然ながら経貞はこれを怨み、晴久に讒言しました。晴久にしても国久の暴走は目に余るものがあったのでしょう、天文23年(1554)、ついに国久率いる新宮党を抹殺してしまいます。
こうして経貞は久幸以来の所領を取り戻しましたが、その後はさしたる活躍もなく、永禄9年(1566)に富田城が落城すると尼子の本領・近江に逃れ、安土城下でその生涯を閉じました。なお、子の平兵衛義陸は父と別れて毛利家臣となり、宍戸隆家に属して三上氏を称したといわれています。
|
元就公の謀略があろうとなかろうと、
径貞の恨み(所領横領)があるので、いずれにせよ
尼子は内紛が起きたのでしょうね。
ぽち☆
2008/8/17(日) 午後 2:42 [ - ]
>やまたろうさん
えー、この記事はマチガイです(苦笑)
まず、「経貞」の名は軍記に登場する久幸の子で、正しくは「詮幸」です。この「詮」の字は詮久から、「幸」の字は久幸からそれぞれ一字もらったのでしょう。
ちなみにこの詮幸に関してもその事績はほとんどわかりませんです。
2008/8/24(日) 午前 0:59