山中御殿

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尼子晴久

尼子晴久(?-1560.12.24)尼子政久の嫡男。尼子経久の嫡孫。母は山名兵庫頭の娘。三郎四郎・詮久・民部少輔・修理大夫。出雲・隠岐・因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後各国守護。毛利元就を攻めて敗れ、大内義隆の侵攻を招くが、義隆を富田城で破ると勢力を挽回、中国地方8ヶ国の守護となる。叔父・国久と対立してこれを滅ぼした後、毛利元就と石見を巡って争うが、その最中に富田城で急死した。

 永正15年(1518)、詮久の父・政久は若くして戦死します。このために祖父・経久はひどく気落ちして実弟の久幸に家督を譲ろうと考えたといいますが、久幸が詮久(晴久の初名)を押し、家臣たちもそれに賛成したために、結局家督は詮久が継ぐことになりました。

 享禄4年(1531)、詮久は毛利元就と兄弟の誓いを立てた、と言われます。当時、既に元就は尼子から離れ、大内氏についていました。しかし、計算高い元就は、尼子氏ともつかず離れずの関係を保っていたのかもしれません。

 その後、天文元年(1532)、叔父・塩冶興久が謀反します。このとき興久は、領土の加増を求めながら望みがかなわなかったために謀反した、ということになっていますが、どうやら詮久と興久との対立もあったようなのです。詮久にも性格的な問題があったのかもしれませんが、これら家臣団と一族の不和の責任は経久にあったと言えるでしょう。
 興久の自害によりこの事件は一応の決着を見ますが、興久の舅・山内直通が尼子家と疎遠になってしまうなど、軋轢が生じ始めます。詮久は、この経久の「負の遺産」を背負っていかねばならなかったのです。

 経久の「負の遺産」は、これだけではありません。毛利元就こそがまさにそれです。元就は尼子方として大内と戦いますが、安芸銀山城を攻めた際、元就に命の保証をされて寝返った大内の将を経久が殺してしまうのです。さらに、元就の家督相続に際して尼子重臣・亀井安綱・秀綱父子が策謀をめぐらして内訌を誘ったとの説があり、当然これを経久が知らないはずがありません。
 こうしたことが、元就の離反につながったとも言えなくもないのです。

 天文6年(1537)、経久は詮久に家督を譲ります。興久の謀反より以降、経久は心身ともに弱ってきていたようで、この前年より詮久が主に軍勢を率いて、備中・美作方面に進出、領土の拡張を得ていました。家督を譲り受けた詮久は、大内氏に奪われていた石見銀山に兵を進めてこれを奪回、転じて播磨に進出し、守護・赤松政村の軍を打ち破ります。
 翌年、ふたたび播磨方面に進出、赤松政村を放逐すると、つづいて播磨三木城の別所就治を攻めます。これは陥落にはいたらなかったものの、詮久の勢いは止まる事を知りませんでした。この詮久の一連の動きは、上洛を意図したものでした。

 しかし、背後では毛利元就が蠢動しており、安芸・備後方面の戦線では尼子軍は苦戦を強いられていました。そこで詮久は安芸遠征を決意します。家臣団の大多数も詮久に賛成する中、大叔父・久幸は慎重論を唱え、「周辺諸城を落としてからにすべきだ」として詮久を諌めました。
 しかし、詮久は聞く耳もたず、久幸を「臆病野州(久幸は下野守を名乗っていた)」と罵ります。

 天文9年(1540)6月、詮久は叔父・国久に備後路から安芸に向けて出撃させます。この攻撃は失敗に終わり、備後路からの攻撃が難しい事を悟った詮久は、同年9月、自ら大軍を率いて石見路から軍勢を進め、安芸に着陣すると、毛利元就の居城・吉田郡山城を包囲しました。寄せ手の尼子方の兵は約3万、毛利方はわずか2千4百だったと言われています。しかし、老練な元就の采配のまえに尼子軍の攻撃はいずれもたいした成果があがらず、戦線は膠着状態に陥ります。

 そして天文10年(1541)正月、陶隆房(のちの晴賢)に率いられた大内氏の援軍が毛利の救援に到着します。これで尼子勢の数的優勢はなくなりました。こうなっては地の利のない尼子勢は不利となります。
 両軍はついに激突しましたが、戦況は毛利・大内方が圧倒的に有利で、尼子勢は総崩れの様相を呈しました。これを救ったのが詮久に「臆病野州」と罵られた久幸で、その奮戦により尼子軍はなんとか全滅を免れました。

 しかし、尼子軍は久幸はじめ多くの将兵が討ち死にし、全軍に甚大な被害を被りました。くわえて積雪のために本国から武器・兵糧の輸送も滞りがちであったため、これ以上の戦闘継続は不可能と判断した詮久は、総退却を決めます。
 詮久は、在陣の篝火をともしたまま夜陰にまぎれて全軍を引き上げました。この退却ばかりはあざやかで、毛利・大内軍が退却に気づいたのはかなり時間がたってからでした。

 尼子傘下にいた国人たちは、吉田郡山城攻撃の失敗の後、大内氏への接近を図り始めました。そして同年11月、経久が息を引き取ると、国人たちはもはや尼子に未来はないとして、大内氏へ出雲遠征を要求します。このとき、石見、備後をはじめ、三沢氏、三刀屋氏など出雲の国人までをも含めた13名が、連署で大内方へ誼を通じていました。

 これを受けて、大内氏の重臣・陶隆房は、相良、冷泉といった反対派を抑えて主君・義隆に強く出雲遠征を薦め、ついに天文11年(1542)正月、遠征軍は山口を発ちました。大内軍は、精兵1万5千に毛利元就をはじめと各地の国人たちをあわせて総勢4万。堂々たる軍容でした。
 が、大内軍は進軍にもたつき、尼子方・赤穴光清の籠る瀬戸山城(飯石郡飯南町)を包囲したのはすでに6月。1ヶ月も小競り合いで浪費し、7月、ようやく総攻撃に踏み切ったものの、光清の奮戦によって千人もの死傷者を出します。こんな調子でようやく富田城までやってきたのが、なんと明けて天文12年(1543)2月というありさまでした。

 月山の向かい、京羅木山に本陣をかまえた大内軍でしたが、3月に入っても攻撃らしい攻撃を仕掛けず、逆に城から出撃した尼子勢によって損害を受けます。大内勢もあわてて反撃を試みたものの、失敗に終わりました。4月、晴久は遊撃部隊を後方に送って撹乱し、糧道を分断し始めます。大内軍は兵糧欠乏から、士気が一気に低下します。
 こうした情勢をみて、「大内よりまだ尼子がマシ」と、先に尼子から大内へついた13将のうち、三沢為清、三刀屋久扶、本城常光、吉川興経、山内隆通の5人が再び尼子へ寝返りました。

 ここにいたって戦闘継続の不可を悟った大内義隆は、5月、総退却を開始します。
 しかし、晴久(将軍・足利義晴から一字をもらい、詮久より改名)はそれを察知して猛追撃を敢行しました。大内軍は副将である義隆の養嗣子・晴持を水死させるなど、甚大な被害を被ります。毛利元就も、あわやというところを家臣に助けられ、命からがら吉田郡山城に逃げ帰りました。

 こうして、大内勢の富田城攻撃を押し返した晴久は、これまでの劣勢を挽回すべく、安芸、備後、石見、美作4州の回復に乗り出します。天文12年(1543)7月、晴久は石見方面に出兵、大内から石見銀山を奪回します。翌13年(1544)には東進して伯耆・美作に出陣、平定します。
 同時に安芸・備後方面にもさかんに出兵し、毛利方の三吉広隆を攻撃、反撃に出た毛利軍の奇襲攻撃を跳ね返して成果を挙げました。こうして晴久は、ひとまず旧領をほぼ回復することが出来ました。
 しかし、その後の天文17年(1548)頃からは毛利元就が反撃を開始し、安芸・備後方面の各城は元就の手中に落ちてしまいます。

 一方、大内義隆は、晴久に敗北して山口に逃げ帰ってからというもの、極端に厭戦的になってしまいます。この結果、陶隆房や杉重矩、内藤興盛といった武功派は退けられ、相良武任ら文治派が権力を手中に入れました。このため武功派の不満は高まり、ついに天文20年(1551)、陶隆房が挙兵して山口に突入、大内義隆は切腹して果ててしまいます。
 陶隆房は豊後の大友宗麟の異母弟・晴英(母は大内義興の娘。後に義長)を大内当主に据え、自らも名を陶晴賢と改めました。

 天文21年(1552)、大内氏のこの政変を受けて、晴久は将軍・足利義輝からあらためて出雲・隠岐・因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後の8ヶ国の守護に任じられます。晴久がこの各国を完全支配していたわけではないとは言え、その影響力がこれら8ヶ国に強く及んでいたと言うことでしょう。
 この人事に不満を抱いた陶晴賢と毛利元就は、協力して備後方面に出て尼子勢と戦いました。ところが、このときの戦後処理をめぐって元就と晴賢との間に不和が生じ、元就はひそかに打倒・陶晴賢の策をめぐらします。

 そして天文23年(1554)、石見の国人・吉見正頼が反乱を起こし、晴賢は鎮圧のために出兵します。しかしこれは元就の策で、この虚を突いて元就は安芸国内の大内方の諸城を次々に攻略していきました。
 驚いた晴賢はいそぎ正頼と和を結び、弘治元年(1555)、2万の大軍を率いて元就討伐に出撃します。
 対する元就は3千という小勢でしたが、陶軍をうまく厳島におびきよせ、夜陰にまぎれて奇襲を敢行しました。小さな島に布陣しいた陶の大軍は身動きが取れないまま毛利勢に押され、壊滅してしまいます。
 晴賢はこの場で自害、勢いに乗った元就は弘治3年(1557)、山口に兵を進めて大内義長を追い、義長も自害して果てます。
 こうして元就は安芸・備後にくわえて防長2州も手中に収め、名実ともに山陽の覇者となりました。

 時を戻しますが、天文23年(1554)、晴久は尼子最強の軍団・新宮党を率いる国久を殺害、ついでその一族を攻めて新宮党を壊滅させました。この新宮党討滅は、晴久の評価を下げている一大要因です。
 しかしながら、当時尼子家は晴久と国久の二頭体制になりつつあり、放っておけば家中が二分して争う自体になる危険があったのです。晴久の失敗は、新宮党を滅ぼしたことではなく、新宮党の暴走を事ここに至るまでに止めることが出来なかったことにあるでしょう。
 ともかく、最大の軍事力を自ら葬り去った晴久にとって、これからが正念場でした。

 弘治2(1556)年、毛利元就の次男・吉川元春は、当時陶晴賢の擁する大内氏の支配下にあった石見銀山を占領します。これに対し、晴久は出雲須佐高屋倉城主・本城常光を石見に派遣し、川本温湯城主・小笠原長雄と連絡をとらせ、自らも大田に出陣しました。
 ついで永禄元年(1558)、尼子軍は忍原で毛利軍に大勝します。勢いにのった晴久は、そのまま石見銀山を奪取し、本城常光に銀山山吹城を任せ、富田城に帰陣しました。

 こうして、晴久は石見をめぐって毛利勢との攻防を繰り返します。しかしそんな最中の永禄3年(1560)12月、晴久は富田城にて急死してしまいます(一説に永禄五年とも)。享年、まだ47歳でした。法号は月光院殿愚渓宗見大居士です。
 晴久の死を聞いた毛利元就は「生きている間に雌雄を決したかった」と悲しんだと言われます。

 晴久は新宮党を滅ぼすなどの失策が目立ち、短慮な人物としてあまり高い評価は受けていません。
 しかしながら、晴久は元就には遅れをとったものの、多くの戦で勝利して尼子氏の一時代を支えました。かつ、内政面でも、家臣団の編成を整え奉行人制度を導入するなど、支配機構を充実させて一定の成果をあげています。
 晴久は、毛利元就相手によく戦った、そういう人物として評価されてもいいのではないかと個人的には思います。ともあれ、晴久亡き後、尼子氏は急速に衰退し、滅亡へと向かっていくのです。

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「家臣団の編成を整え奉行人制度を導入」は新しい情報でした。
ありがとうございます!

新宮党の事件がインパクトが大きいので、
ダメなイメージが大きいのですが、
こういう点もあったのですね! …〆(ー ̄*)カキカキ
拡大路線をあせりすぎたのかもしれませんね。

毛利隆元と並ぶ謎の死の解明が待たれますね。
ドラマだと簡単に暗殺にしてしまいますが、
本当が知りたいですね!

最近では厳島は奇襲ではないといわれてますね。
自分も元就公は地味で堅実な人物なので、
水軍との挟み撃ちだと考えています。

ぽち☆

2008/8/29(金) 午前 11:31 [ - ]

>やまたろうさん
実のところ、私は晴久はもっと評価されてしかるべきだと思ったりしてます。
この記事もそのうち修正版をアップさますので…

2008/8/30(土) 午後 1:38 佐々木斉久

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私も晴久はもっと評価してよい人物だと思います。よく経久は偉かったように言われますが、元就さえいなければ晴久は中国地方を統一していたと思います。晴久が生存していれば、尼子は毛利に敗れることはなかったように思います。

2010/5/23(日) 午後 10:08 [ がっさん ]

>19erさん
改めてこの記事読み直しましたが、なんかかなり偏った目でみてますね……(苦笑)
しかしまぁ、尼子氏が領域支配をもっとも深化させたのは晴久の代であるということは、ある程度間違いないと思います。

2010/5/24(月) 午後 9:50 佐々木斉久


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