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尼子義久(1540〜1610.8.28)尼子晴久の嫡男。母は尼子国久の娘。三郎四郎・右衛門督。出家して友林を号す。父の死を受けて当主となり、豊後の大友氏と結んで毛利氏を挟撃するが、富田城を包囲されて降伏した。
永禄3年(1560)、父・晴久の突然の死によって弱冠20歳で尼子氏の当主となります。しかし、この頃出雲を取り巻く環境は決して良好なものではありませんでした。大内氏を打倒してその勢力を吸収した毛利元就が、矛先を尼子に向け、石見方面から出雲への侵入を繰り返していたのです。
尼子勢は毛利氏に押される形で、勢力を失いつつありました。晴久は自ら兵を率いて防戦し、石見銀山を押さえるなど奮闘をみせていましたが、まったく予断を許さない状況だったのです そこで義久は晴久の喪を隠し、その亡骸を密葬したと言われています。
しかし、やがて晴久の死は元就の知るところとなり、元就は石見出兵を企画します。ところが永禄4年(1561)、豊後の大友宗麟が、豊前へと進撃をすすめて毛利勢が固守する門司城まで攻め寄せました。さらに石見では、領地の問題で不満を持っていた福屋隆兼が尼子方につき、毛利方・吉川経安の守る福光城に攻撃を始めます。
義久は山吹城の本城常光に命じて福屋隆兼を援助させました。
この前年から、将軍・足利義輝が毛利・尼子間の和平勧告のために頻繁使者を送ってきていました。大友氏と尼子氏を一度に敵にしては不利と考えた毛利元就は、この和平勧告に従って尼子氏と和談を決意します。義久も晴久死後の混乱によって国内慰撫が最優先課題であったため、和平を受け入れることにしたのです。
しかしこの和平成立で、義久が本城常光に福屋隆兼の援助を打ち切るよう命じたため、隆兼は孤立、元就の次男・吉川元春によって石見を追われてしまいました。結果として和平は毛利氏に有利に働いたことになります。
福屋氏の滅亡により、石見の勢力図は毛利氏優勢に傾きました。こうした中、永禄5年(1562)、毛利元就は尼子氏との和議を一方的に破棄、精兵1万5千を率いて本格的な侵攻に出ます。
元就の目前の壁は猛将・本城常光でした。鬼吉川と呼ばれた吉川元春とも互角に戦うこの常光に対し、元就は出雲の所領給与という餌をまきます。利に走った常光は、尼子氏を捨て、毛利に寝返ってしまいました。
この報に出雲国人衆は動揺し、三沢為清、三刀屋久扶をはじめとする多くの国人たちが雪崩をうって毛利方に走ります。義久にとって計算外だったのは、富田支城・尼子十旗の筆頭である白鹿城の城主、松田満久・誠保父子までもが毛利についたことです。松田満久は晴久の姉婿で、義久からみれば義理の伯父に当たる人物だったのです。
窮地に立たされた義久は、豊後の大友宗麟に連絡を通じます。宗麟は義久の求めに応じる形で、刈田松山城を攻め毛利勢を牽制しました。元就は仕方なく、軍勢を分けて嫡男・毛利隆元を出征させます。
さらにこの時、元就は吉川元春に命じて本城常光を殺害させました。常光は、当初約束された所領をもらえなかったために不満を抱いていたと言われています。常光がなまじ猛将であったため、その武勇を危険視した元就は、はじめから殺すつもりだったのでしょう。
しかし、この常光の死により、松田満久をはじめとする出雲国衆は、「自分も粛清されるのでは」という不安を感じ、尼子方に戻ってしまいます。それでも、出雲最大の国人である三沢為清、三刀屋久扶などは依然として毛利にとどまっていた為、元就は一旦は退いたものの、再び北上を開始しました。
元就はまず出雲平野の北端に鳶ヶ巣城(出雲市)を築きいて軍事拠点としたあと、宍道湖北岸に洗合城(荒隈・洗骸とも。松江市)を築いて本営をそこに移し、長期戦に備えました。
そして元就は白鹿城を包囲して富田城との連絡を断ち、美保関からの海上輸送路を封鎖したのです。
義久はすぐさま弟・倫久を総大将として救援軍を派遣します。救援軍は、亀井秀綱、牛尾幸清などの家老・大身衆が先陣をとり、二陣として立原久綱、山中幸盛などの中老衆が続きました。
尼子大身衆は毛利勢を挑発しますが毛利は動きません。そして日暮れ時になって尼子勢が引き上げようとしたところを毛利勢が急襲、西日が目に入ってまともに戦えない尼子勢は総崩れとなった、と言われています。
永禄6年(1563)、大友氏と交戦中だった毛利隆元は、将軍・足利義輝の斡旋によって和平を結び、本軍と合流するためにいそぎ北上ます。ところが、備後の国人・和智誠春の饗応を受けたあと、急に体の不調を訴え、4日後に死亡してしまいました。この死は、義久の指示による毒殺であったとも言われています。
隆元の頓死を知った元就は、その弔合戦だとばかりに白鹿城総攻撃を断行しました。松田満久・誠保父子は奮戦しますが、かなわず白鹿城は落城します。満久は壮絶な死を遂げ、誠保は他日を期して隠岐に逃れました。
勢いにのった毛利軍は、ついで熊野城を攻め、城将・熊野和泉守を討ち果たします。こうして尼子氏の防衛拠点を屠った毛利軍は、京羅木山に布陣して富田城に迫りました。
永禄8年(1565)4月、元就は本陣を星上山に移し、菅谷口・御小森口・塩谷口の三方面から富田城攻めを敢行します。義久は自ら御小森口に立って五千二百余人を率い、塩谷口には次弟・倫久ら三千七百余人、菅谷口に三弟・秀久ら三千余人を配して毛利軍を迎え撃ちます。尼子軍はよく戦い、毛利軍の撃退に成功しました。
9月、元就は再び攻撃を試みますが、これも失敗に終わります。尼子方・山中幸盛と毛利方・品川大膳の一騎打ちが行われたのはこの頃で、名高い戦話となっています。
元就は二度にわたる攻撃の失敗により、力攻めをあきらめ、兵糧攻めに切り替えます。毛利軍は富田城を完全に包囲、尼子兵の投降や脱走を阻止します。こうすることで、富田城内の食糧を早く減らそうとしたのです。
やがて城内の食糧が乏しくなってきたころを見計らって投降を許すと、城兵は雪崩をうって毛利に降り、ついには亀井秀綱、河本隆任、佐世清宗、湯惟宗、牛尾幸清など、家老・累代の部将までもが富田城を去りました。
筆頭家老・宇山久兼は、この状況を阻止するべく私財をなげうって兵糧を買い入れ、但馬、丹波などから安来より間道で富田城に運び入れました。ところが義久は、永禄9年(1566)元旦、この宇山久兼を誅してしまいます。これは元就の調略だったといわれていますが、大身衆と近習・中老衆以下との対立が激化しており、内部分裂が歯止めを効かない状況になっていたため、やむなく殺害に及んだものでしょう。
この義久の行為に多くの者が尼子を見限り、いよいよ城兵の投降に歯止めが利かなくなりました。これ以上の戦闘継続は不可能と悟った義久は、使者を毛利の本陣に遣わし、ついに降伏を申し出ます。元就の次男・吉川元春、三男・小早川隆景らはあくまで尼子一族の根絶やしを主張したが、元就はこれを退けて降伏を受け入れました。
富田城は明け渡され、福原貞俊・口羽通良の両将が城内に入り、ついで天野隆重と交代しました。
富田城を出た義久は、倫久、秀久の二弟とともに杵築(出雲市)に送られました。最後まで城中にあった河副久盛・立原久綱・山中幸盛・三刀屋蔵人・森脇東市正ら数十人は杵築まで見送ることが許され、この地で主従決別の盃を交します。その後、幸盛らは望みを将来にかけて故国出雲をあとにしました。
義久ら三兄弟は、杵築から安芸長田の円明寺に移されます。義久には大西十兵衛、多賀勘兵衛、津森四郎次郎らが家老として、さらに宇山右京介、立原備前守、本田豊前守らも附添いを許され、総勢29名が義久に付き従いました。
義久らは毛利家から丁重な扱いを受けましたが、反面厳重な監視がつけられました。
その後、16年後の天正16年(1588)、家老・大西十兵衛が乱心のかどで手打ちにされるという事件が起こります。事件の発端は、尼子家家宝の銘刀・荒身国行(頼国行)の存在を毛利当主・輝元(元就の孫)が知った事にあります。輝元はこの銘刀を所望し、幽閉の身にある義久はやむなくこれを献上します。
そもそもこの銘刀の存在を輝元が知ることになったのは大西十兵衛が輝元にもらしためで、これに義久は怒り、手打ちにしたものだと言われています。しかしながら十兵衛の真意は、義久の窮状を思って銘刀の献上と引き換えに主君を自由の身にしてもらう事であり、その甲斐あって翌天正17年(1589)、義久ら三兄弟は幽閉を解かれました。後に十兵衛の意を知った義久は、十兵衛の嫡孫・新四郎に大西家を継がせ、手厚く遇したと言われています。
幽閉を解かれた義久ら3兄弟は、志路の梶谷(根の谷)に居を構え、五百七十石の地を給され、毛利の客将となります。そして7年後の慶長元年(1596)、義久は病気を理由に長門国(山口県)五穀禅寺に移り、入道して友林と号しました。
義久には子がなかったため、次弟・倫久の子、九一郎元知を養子にむかえ、家督を継がせました。
この後、義久は同国奈古の地に移り、慶長15年(1610)、義久はこの奈古の地で没します。法号は大覚寺殿大円心覚居士。菩提寺は、山口県阿武町奈古の大覚寺となっています。
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息もつかせぬ名文で一気に
読んでしまいました〜♪ v(・◎・)ブイッ
元就公の戦略はやはりいろいろ参考になり、
ためになります。…〆(ー ̄*)カキカキ
ただ九州出兵などは自分も反対ですね。
尼子への一方的な和議破棄(侵攻)などすばらしいと
思いますが、本城の謀殺が裏目にでるところなど
考えさせられる部分もありました。
兵糧攻めは退路をたたれると敗れるわけですから、
国人衆をどれだけ寝返らせるかは重要ですね。
ぽち☆
2008/8/30(土) 午後 2:15 [ - ]
イヤ、名文だなんてそんな…
義久は戦国大名としての尼子氏最後の当主で、「結果がすべて」な歴史の世界ではダメ当主扱いなんですが…
べつに内政もごく真っ当なことをしていたみたいですし、暗愚な当主といってしまっては正当な評価ではない気がします。
ただ、相手が悪かった!それにつきますね。
2008/8/30(土) 午後 9:10
質問させてください。
晴久の項目での、実際の晴久の年齢は通説より10歳程度上だったとい記述は興味深く感じました。がそれだと嫡男(次男)義久の1540年生まれというのが不自然に感じられます。それについてはどう考えられますか?
2010/5/16(日) 午後 1:32 [ がっさん ]
>19erさん
たしかに晴久の生年を考えたら、義久もそれに伴って生年を繰り上げて考えるべきでしょうね。
整合性が欠けてましてすんませんです。なんせ修正する時間がないのでありますよ(←いいわけ)。
「佐々木系図」によれば義久は長男ではなく次男です。
これが正しいとして、ほかに兄弟がいなければ通説どおりの生年でもありうるのですが、義久には倫久、秀久という弟がいますから、やはり不自然ですよね。
2010/5/16(日) 午後 8:20
兵庫県の赤穂に尼子山城という城址があり地元では尼子義久が城主で毛利元就に攻められ落城(麓には義久の墓まで)したと言われています。年代の整合性がまったくとれないので???だったのですが
義久の生年が繰り上がるのであればまったく根拠のない伝承ではないのかもしれませんね。
2010/5/16(日) 午後 10:40 [ 19er ]
尼子山城、聞いたことはあります。
義久自身が尼子山城に駐屯していたとしても、その落城時に死亡したというのは明らかに事実ではないでしょう。
でも、義久の生没年や尼子氏の勢力等が尼子山城の落城年代と整合していたとしたら、たしかになかなか興味深いですね!
2010/5/19(水) 午前 10:43