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尼子倫久(?-1623.3.4)尼子晴久の次男。母は尼子国久の娘。九郎兵衛尉。出家して瑞閑。兄・義久を助けて毛利軍と白鹿城救援戦や富田城防衛戦を戦うが、敗れて安芸に幽閉された。
永禄3年(1560)、父・晴久の突然の死によって、兄・義久が尼子氏の当主となります。義久は将軍・足利義輝の和平勧告に従って毛利元就と和平を結びました。ところが永禄5年(1562)、毛利元就は尼子氏との和議を一方的に破棄、精兵1万5千を率いて本格的な侵攻に出ます。
尼子氏の頼みは石見山吹城を守る猛将・本城常光でしたが、常光は利に走って元就の調略に乗り、毛利方へと寝返ってしまいます。尼子方の国人衆はこれに動揺し、つぎつぎと毛利に降っていきました。
永禄6年(1563)、毛利軍により要衝・白鹿城が包囲されます。この白鹿城は、尼子十旗と呼ばれる富田城の支城のうち、一番に格付けされる要衝で、松田満久・誠保父子が守っていました。この城は美保関港を押さえ、中海の制海権を得るための拠点として、重要な兵站基地となっていたのです。
そこで毛利軍は白鹿城への攻撃に全力を尽くし、糧道を断ったうえ水源を断とうとして石見銀山の鋼夫に命じて地下の水源を掘らせますが、城方はこれを察知して逆に地下から毛利軍を襲撃、珍しい地下戦が演じられました。
しかし毛利軍の圧力が圧倒的であったため、義久は白鹿城への救援軍派遣を決定します。その総大将として倫久が選ばれ、一万余の兵を率いて白鹿城に駆けつけます。
9月、倫久は白鹿城下で毛利軍と対峙します。亀井秀綱、牛尾幸清ら家老衆が先陣として毛利軍に立ち向かい、盛んに弓・鉄砲なでで牽制をします。しかし毛利軍は挑発にのらず、夕方日が沈むころになって尼子勢が退こうとしたところを逆襲します。尼子軍は強い西日のためにろくに戦えぬまま先陣が後退、かわって立原久綱、山中幸盛ら後陣が奮戦しますが、倫久は勝機なしとして総退却しました。
こうして白鹿城救援は失敗におわり、松田満久は戦死、誠保は他日を期して隠岐に逃れます。
永禄8年(1565)、毛利軍は富田城へ迫り、三手に分かれると菅谷口、御子守口、塩谷口の各方面から富田城を攻撃を仕掛けました。このとき倫久は塩谷口の総大将として出陣します。この塩谷口は富田城の搦手(裏口)にあたり、城内への最短距離であったため、最も激しい争いがありました。毛利方の塩谷口方面の大将は猛将・吉川元春でしたが、山中幸盛などの活躍もあって、攻撃を退けることに成功します。
しかしその後、毛利軍は力攻めをあきらめて兵糧攻めを行ったため、城中の兵糧・物資が欠乏していきます。尼子軍は士気の低下や疑心暗鬼による同士討ちのために戦闘継続が不可能となったため、永禄9年(1566)、ついに義久は毛利に降伏を決意します。
こうして富田城は開城、倫久は兄・義久、弟・秀久とともに安芸に幽閉されてしまいました。
その後、倫久ら三兄弟は長く幽閉状態に置かれました。この幽閉が解かれたのはようやく天正17年(1589)になってからで、倫久らは毛利の客将となりました。
その後、文禄元年(1592)および慶長2年(1597)に豊臣秀吉が朝鮮出兵を行うと、倫久は兄・義久の代理として毛利軍に加わります。
そして慶長5年(1600)には関ヶ原合戦にも参加しますが、毛利軍の属した西軍は敗北し、毛利家は周防・長門の二国に減封されてしまいます。倫久らもこれにともなって長府に移りました。
倫久の長男・元知は義久の養嗣子となって尼子家を継ぎますが、次男・宗久は毛利家を離れて石見に残っりました。このため倫久も後に石見に移って出家、瑞閑と称し、同地で生涯を閉じたといわれています。法号は桃源院石雲瑞閑大居士と伝わっています。
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義久は有名ですが、倫久についてはあまり知られてないですが
その後の活動がよくわかりました! <m(_)m> ありがと
この辺りは「めずらしく」大河も史実を踏襲していますね。
ぽち☆
2008/9/1(月) 午後 8:12 [ - ]
尼子宗家は、この倫久の血筋なわけですね。
昭和に入って佐々木寅介という方を最後に断絶したという話ですが、別に宗家筋を名乗る家系があるようです。
2008/9/1(月) 午後 10:29