山中御殿

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尼子秀久

尼子秀久(?-1609.12.2)尼子晴久の三男。母は尼子国久の娘。兄・義久とともに毛利氏と戦ったが、敗れて安芸に幽閉された。

 永禄3年(1560)、父・晴久の突然の死によって、兄・義久が尼子氏の当主となります。義久は将軍・足利義輝の和平勧告に従って毛利元就と和平を結びました。ところが永禄5年(1562)、毛利元就は尼子氏との和議を一方的に破棄、精兵1万5千を率いて本格的な侵攻に出ます。
 尼子氏の頼みは石見山吹城を守る猛将・本城常光でしたが、常光は利に走って元就の調略に乗り、毛利方へと寝返ってしまいます。尼子方の国人衆はこれに動揺し、つぎつぎと毛利に降っていきました。

 尼子軍は各地で抵抗しますが、要衝・白鹿城が落ち、本拠・富田城に追い詰められます。
 そして永禄8年(1565)、毛利軍は富田城へ迫り、三手に分かれると菅谷口、御子守口、塩谷口の各方面から富田城を攻撃を仕掛けました。
 このとき秀久は菅谷口の総大将として出陣します。毛利方の菅谷口方面の大将は元就の三男・小早川隆景でした。さらに隆景の下にはもと尼子家臣で高瀬城主・米原綱寛が属し、水先案内をつとめており、激戦となりました。しかし秀久軍は、筆頭家老・宇山久兼や立原幸隆らの活躍により、隆景の攻撃を退けることに成功します。

 しかしその後、毛利軍は力攻めをあきらめて兵糧攻めを行ったため、城中の兵糧・物資が欠乏していきます。尼子軍は士気の低下や疑心暗鬼による同士討ちのために戦闘継続が不可能となったため、永禄9年(1566)、ついに義久は毛利に降伏を決意します。
 こうして富田城は開城、秀久は兄・義久、倫久とともに安芸に幽閉されてしまいました。

 その後、秀久ら三兄弟は長く幽閉状態に置かれました。この幽閉が解かれたのはようやく天正17年(1589)になってからで、倫久らは毛利の客将となりました。しかし、秀久は長年の幽閉生活によって病を得ていたようで、兄・倫久のごとく軍役をつとめることはありませんでした。
 そして慶長5年(1600)、関ヶ原合戦で毛利軍の属した西軍は敗北し、毛利家は周防・長門の二国に減封されてしまいます。秀久らもこれにともなって長府に移りました。

 秀久は兄・義久とともに奈古の地に移っています。そして慶長14年(1609)、かねてからの病のため、二人の兄に先立って死去します。法名は喬山乗心居士と伝わっています。

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秀久はけっこう病弱だったのかもしれませんね。

尼子家も精強な時に活躍していれば、毛利三兄弟を凌ぐほど
だったかもしれませんね。

ぽち☆

2008/9/6(土) 午後 4:30 [ - ]

>やまたろうさん

長年にわたる幽閉生活というのは、やはり精神を消耗するものなんでしょうね。
それまでは衰えたりとはいえ大名家の一族としての立場であったものが、一転して自由に外出することもままならない生活。
よほど達観した人か、気骨のある人物でなければ長生きできないということでしょうね。まぁ秀久は、そういう意味では「普通の人」だったわけです。

それを考えれば、義久・倫久は生き長らえたわけですから、精神的にタフだったんでしょう。
なかなかみあげたものです。

2008/9/6(土) 午後 8:21 佐々木斉久


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