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尼子誠久(?-1554.11.1)尼子国久の長男。一説に次男。母は多胡忠重の娘。父・国久とともに新宮党を率い、従兄・晴久を支えて活躍したが、傲慢な振る舞いが多く家中で孤立、晴久によって粛清された。
天文9年(1540)、誠久は従兄・晴久の命により、父・国久とともに新宮党をはじめとする三千の兵率いて備後に出兵します。このとき晴久は毛利元就討伐のため吉田郡山城の攻撃を企画しており、この新宮党の備後出兵はいわば威力偵察でした。
誠久は備後路から江の川の渡河を試みましたが、甲立五竜城主・宍戸元源らの反撃にあい、渡河作戦は失敗、出雲に退きます
この報告を受けた晴久は備後路からの進出を断念、石見路から吉田郡山城攻めを敢行し、誠久もこれに付き従います。しかし、尼子軍は老獪な毛利元就の用兵に翻弄されて郡山城攻略に手間取ります。尼子軍はそのままいたずらに時を過ごし、翌年には陶隆房(晴賢)率いる大内軍が来援します。
誠久は奮戦しますが、長期の在陣のために疲労しきった尼子軍は大内軍に大敗します。晴久はこれ以上の戦闘は不可として、出雲に帰還しました。
この郡山城攻略失敗により、尼子傘下の国人たちは動揺、離反が相次ぎます。そして天文11年(1542)にはこれを好機として大内義隆が侵攻してきます。誠久は新宮党を率いて大内軍を翻弄、やがて総崩れとなった大内軍を追撃して戦果をあげました。
大内軍を撃退した尼子勢は失地回復に乗り出しますが、この反撃戦の先頭に立って奮戦したのが誠久ら新宮党でした。
天文13年(1544)、誠久は尼子勢の主力七千を率いて備後に侵攻し比叡尾城の三吉広隆を攻撃、援軍として駆け付けた福原貞俊、児玉就忠ら毛利勢を蹴散らしました。これを「布野くずれ」と呼びます。
こうして誠久ら新宮党は多大な軍功を上げ、尼子氏は経久時代の威勢を取り戻しました。
しかし、この多大な軍功により誠久は高慢な振る舞いをするようになります。
あるいは家中の武将・中井平三兵衛の美髯を妬んでその髭を掴んで辱めたり、あるいは新宮舘の前を馬にて通る事を禁じる高札を立てる(これに怒った武将・熊谷新右衛門は、牛にまたがって門前を通ったという)など、傲慢さはエスカレートしていきました。
こうして誠久は家中に敵を作っていき、尼子家中で孤立するようになります。父・国久と晴久の対立も深まり、晴久と新宮党は一触即発の状態になりました。
そして天文23年(1554)、11月1日、父・国久ととも評定のため富田城へ登城する途中、晴久の襲撃を受けてあっけなく殺害されてしまったのです。
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「布野くずれ」の辺りが誠久の絶頂期ですね。
国久と並んで有名な新宮党の武将ですね。
これらの部下を管理できなかったのが、
晴久の失敗ですね。
ぽち☆
2008/9/9(火) 午後 4:08 [ - ]
>やまたろうさん
この記事の書き方では、新宮党の粛清に至った原因が武将の性格に起因するということになってますが……実際のところはまた書いてみますね。
2008/9/10(水) 午後 11:09