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尼子豊久。尼子国久の次男。一説に長男。母は多胡忠重女。新四郎・兵部大輔。尼子久幸の娘を妻とした。父・国久とともに新宮党を率いて活躍するが、橋津川の戦いで武田常信の猛攻にあって戦死した。
天文9年(1540)、豊久は従兄・晴久の命により、父・国久とともに新宮党をはじめとする三千の兵率いて備後に出兵します。このとき晴久は毛利元就討伐のため吉田郡山城の攻撃を企画しており、この新宮党の備後出兵はいわば威力偵察でした。
豊久らは備後路から江の川の渡河を試みましたが、甲立五竜城主・宍戸元源らの反撃にあい、渡河作戦は失敗、出雲に退きます
この報告を受けた晴久は備後路からの進出を断念、石見路から吉田郡山城攻めを敢行し、豊久もこれに付き従います。しかし、本国出雲空白の隙を狙って、先に伯耆を追われた伯耆国人・南条宗勝が、因幡山名の重臣・武田常信とともに羽衣石城奪還を目指して進撃してきたのです。この知らせを受けた豊久は、急遽父・国久とともに伯耆に転進し、武田・南条軍と対決します。
南条・武田軍は、武田常信を総大将として6千の兵を率いて尼子方の河口城を陥れ、馬の山に陣を布きました。対する豊久・国久の兵数また6千といわれ、両軍は橋津川を中に挟んで対陣します。
豊久は渡りロに向った武田軍を食い止めようと奮戦、武田常信の本隊と激突します。しかし、武田軍の勢いは盛んで豊久軍は圧倒され、ついに常信によって討ち取られてしまいまったのです。
合戦はその後、将を討たれて却って奮い立った尼子勢が武田軍を散々に討ち破り、常信は上橋津西の上のスクモ塚まで逃れ、自刃して果てました。また、南条宗勝も橋津橋上で戦闘中、後続部隊が詰めかけたために橋が落ちて河中に転落、混乱のうちに敗退したといわれています。
豊久没後、父・国久ら新宮党は家中で孤立するようになり、晴久によって滅ぼされてしまいます。悲惨な内紛を見ずに戦場に散った豊久は、ある意味幸せだったかもしれません。
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佐々木さんいつもお世話になっています。今回は、検索からたどり着きました。伯耆の国に行くことが多いので、ああ、あのあたりの事か、と地形が頭に浮かびます。年始は、時間があるので、こういった読み物は、ありがたいです。
2007/1/3(水) 午後 3:54
参謀さん>毎度です!尼子ブログのほうは投げっぱなしですがw まぁ、そのうち更新再開しますのでもうしばらくお待ちを。で、この尼子豊久についての記事は、じつは大体根本的に間違いなようです。豊久の死は、実際にはもう少し後なんだそうです。詳細は、尼子ブログでいつか紹介…できるかなぁ???
2007/1/4(木) 午前 0:23
尼子家はけっこう主将クラス(一族)が戦争でやられるケースが
多いですね。
この点がよくありませんね。
ぽち☆
2008/9/11(木) 午後 3:50 [ - ]
>やまたろうさん
ハイ、この記事は大ウソでございました。
詳しくは、先日アップした「尼子国久(改)」をご覧くださいませ〜。
2008/9/12(金) 午前 10:47