山中御殿

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尼子勝久

尼子勝久(1553-1578.7.2)尼子誠久の末子。母は多賀宗隆の娘。孫四郎・助四郎。新宮党粛清の折に小川重遠に助けられ、京都東福寺に逃れて僧となる。尼子宗家の滅亡後、尼子再興の旗頭として擁立されるが、播磨上月城で毛利に敗れて自害した。

 祖父・尼子国久は一族を新宮党と称し、尼子軍の主力部隊として各方面で戦果をあげました。しかし天文16年(1547)頃から宗家の尼子晴久と対立し、ついに天文23年(1554)、新宮党は晴久によって誅殺されてしまいます。
 このとき赤子だった勝久は、小川重遠に守られて吉田永源寺に匿われます。その後も晴久の追及が厳しく、備後徳分寺に逃れ、永禄9年(1566)の富田落城の後は、毛利氏の追及を避けて京都東福寺に入ったといわれています。しかし、東福寺の記録によれば、勝久は「晴久が保護者である」という事で寺に入ることを許可されているため、勝久は内紛の火種となることを恐れた晴久によって、出家させられたと考えられます。

 永禄9年(1566)、尼子宗家の尼子義久が毛利に敗れ、安芸に幽閉されます。尼子旧臣の山中幸盛、立原久綱らは、京都に上って東福寺の勝久の元に現れました。再興の旗頭となることを求められた勝久はこれに同意、還俗して孫四郎勝久を名乗ることになります。

 永禄12年(1569)6月、勝久ら尼子一党は、豊後の大友宗麟と連絡をとりながら、但馬から隠岐を経、島根半島の千酌湾に入ります。小競り合いの後に毛利軍を蹴散らし、上陸すると忠山に陣を据えて四方に檄をとばしました。この檄に応じて、各地に潜伏していた尼子旧臣たちは続々と忠山に集結します。
 勝久らは真山城(新山とも。松江市)に拠点を移し、原手郡の戦いに勝利して国内での主導権を握り、ひと月ほどで出雲国の大半を制圧することに成功しました。
 しかし、富田城を攻撃した尼子方の秋上久家は毛利方・天野隆重の智謀により敗北、その後も小競り合いが続きますが、難攻不落の富田城を落とすには至りませんでした。

 毛利軍の主力は北九州で大友宗麟と争っていましたが、大内氏の一族・大内輝弘が山口に乱入して毛利軍の背後を脅かすと、毛利軍は北九州から軍勢を総退却させて大内輝弘を鎮定、そのまま出雲平定に向かいます。
 そして元亀元年(1570)2月、押し寄せた毛利本隊と富田城南方布部要害山で衝突します。この戦いは、当初地の利のある尼子軍が優勢でしたが、多勢の毛利軍が吉川元春率いる別働隊を組織、間道伝いに尼子軍の背後を衝いたため、尼子勢は総崩れとなりました。この戦いで、尼子十勇士のひとり、横道正光を失ってしまいます。

 この敗戦で毛利本隊は富田城に入城、尼子の出雲平定は絶望的になりました。尼子勢は各地で次第に破れ、山中幸盛とともに尼子十勇士の双璧といわれた秋上久家までもが毛利に降ってしまいます。そして山中幸盛が伯耆末石城にて吉川元春に敗れて拘束されてしまいまうと、万策尽きた勝久らは、最後の拠点・真山城を捨てて隠岐に逃れ、ついで京都に走りました。

 天正元年(1573)、立原久綱らの働きで織田信長の援助を得た勝久らは、今度は因幡各地を転戦します。毛利に囚われていた山中幸盛は隙をついて脱出、先に因幡に入って因幡守護・山名豊国の協力をとりつけていました。勝久らはわずか十日にして13城を落とし、翌天正2年(1574)9月には、毛利入道浄意の守る鳥取城を落としました。

 ところが、天正3年(1575)、山名豊国が毛利と和睦してしまったため、勝久らは鳥取城を退去、私都城・若桜鬼ケ城に入りました。そして吉川元春・小早川隆景ら毛利軍精兵1万7千が因幡に入り、無勢の尼子勢は防戦の甲斐なく次々と敗れました。
 このため因幡攻めをあきらめた勝久らは、天正4年(1576)5月若桜鬼ケ城より撤退しました。

 その後、ふたたび上洛した勝久ら尼子一党は、羽柴秀吉の旗下に入って織田軍中国攻めの先鋒に加わります。そして天正6年(1578)2月、尼子勢は宇喜多秀家の軍勢から上月城を奪い、勝久が上月城番を任されました。
 再興軍は意気を上げますが、播磨国人衆が秀吉を裏切った為に、形勢は暗転します。4月、秀吉の本軍が播磨国人衆との戦闘のために後方へ退いた隙を突いて、毛利軍3万が上月城を包囲します。秀吉はなんとかこの状況を打開しようと援軍の派遣を織田信長に直訴したとされますが、信長が撤兵を命じたため、秀吉は尼子主従を見捨てました。

 このため、勝久らは毛利に降伏を申し出ることになります。降伏の条件として、尼子方は神西元通ら家老衆の命と引き換えに、勝久および城兵の助命を求めましたが、毛利方はあくまで勝久の首を要求しました。結局、尼子方は毛利方のこの条件を飲み、勝久はともに城中にあった兄・氏久とともに自刃。享年二十六歳でした。

閉じる コメント(2)

勝久の立場は微妙な状況になってしまったのですね。

秀吉、信長の勢力拡大は予想外でしたね。
利用も難しい勢力ですね。

ぽち☆

2008/9/24(水) 午後 2:00 [ - ]

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>やまたろうさん
そもそも尼子再興の可能性がすこしでもあったのは、最初の出雲切り返しのときだけでしょうねぇ。
ただ、勝久を総帥とした尼子氏の再興がなったとしても、以前の(義久までの)尼子氏とはまったく別物になっていたことは間違いないと思います。

2008/9/28(日) 午前 1:45 佐々木斉久


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