山中御殿

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山中左京進満盛

山中満盛(1468-1538.3.10)山中幸満の嫡男で、山中幸久の嫡孫。母は川副光氏の娘。勘兵衛・勝重・国定・左京進。経久の富田城奪回に貢献し、その後も三沢氏討伐に功があったという。

 『山中系図』によれば、満盛は経久の富田城奪回に功があった、とされています。ここから推定すると、『雲陽軍実記』などに記されている山中勘兵衛勝重なる人物は、この満盛に相当するのでしょう。

 文明16年(1484)、経久の富田城追放後、鰐淵寺の麓に隠棲したといわれています。富田城を追放された経久は、仁多郡の真木朝親のもとに匿われ、ここを拠点に巻き返しを画策し始めたようです。
 そして鰐淵寺山麓の満盛のもとにも経久が訪れ、協力を要請しました。満盛はこれに応じ、山陰を中心に活躍する乱波(忍者集団)・鉢屋衆の棟梁、鉢屋弥三郎に連絡を取ります。
 満盛は、「富田城奪回が成った暁には、武士としての待遇を与える」という経久の言葉を伝え、弥三郎は満盛に協力を約束しました。

 文明18年(1486)正月元旦、尼子経久は満盛をはじめ真木朝親、亀井安綱、川副常重ら十数名を伴って富田城塩谷口の搦め手門付近に潜伏します。
 そしてかねてからの手はずどおり、鉢屋弥三郎にに率いられた鉢屋衆は、万歳踊り(正月の祝いとして鉢屋衆が行った恒例行事と言われる)に扮して富田城に登城してきます。城主・塩冶掃部介は恒例の年賀の行事であると何の疑いもなく彼らを招じ入れました。

 頃合を見て満盛らは搦め手門に放火、同時に鉢屋衆が踊りの衣装をかなぐり捨てて抜刀すると、城兵に襲い掛かりました。何が起こったのかわからない城兵の混乱をよそに、城内に突入した満盛らは城主・塩冶掃部介に襲い掛かり、激闘の末、掃部介の首をとりました。

 こうして富田城主に返り咲いた経久によって、満盛は亀井、川副、真木の各氏とともに執事に任じられます。

 延徳元年(1489)、満盛はささいな罪で処罰され、経久によって追放されてしまいます。そのうえ、満盛の家族も投獄され、虐待を受けました。満盛は富田城を逃れて出雲随一の国人領主・三沢為国に降りました。実はこれが経久の計略で、満盛は「埋伏の毒」として三沢氏に偽って降ったのです。
 
 やがて三沢為国の信頼を得た満盛は、経久のために囚われている家族の救出を為国に訴えます。これをよしとした為国は、翌延徳2年(1490)、主力を率いて富田城下に出撃しました。ところが、前もって満盛が経久に出撃の報を伝えており、三沢軍は尼子の伏兵によって壊滅的な打撃を受けます。
 ほうほうの体で城に帰還した為国ですが、やがて押し寄せた尼子勢に抗するべくもなく、臣従を誓いました。

 これら二つの満盛の活躍は、『雲陽軍実記』などには見られるものの、同時代の他の史料には触れられていないので、創作ではないか、と言われています。
 しかし、満盛が経久をたすけて功があったのは事実でしょう。その後も満盛は経久をたすけ、山中氏は尼子家臣団の中で重きをなしていったのです。

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偽りの追放は大河ドラマにも利用されていますね。

山中氏の経久への協力などとても興味深く読ませていただきました。
真偽はともかくドラマにするとこの辺りは、
とてもおもしろくなりそうですね〜♪

ぽち☆

2008/9/30(火) 午後 5:08 [ - ]


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