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山中幸盛(1545-1578)山中満幸の次男。山中満盛の孫。母は立原綱重の娘。甚次郎・鹿介。亀井秀綱の娘を娶り、一時婿養子として亀井姓を称した。富田城が落城すると、尼子勝久を擁立して尼子再興を志、出雲・因幡・播磨を転戦するが、播磨上月城で毛利に敗れ、降伏の後、暗殺された。
幸盛は生後数ヶ月で4、5歳の幼児のようであったと言われ、8歳ですでに人を討ち、13の頃には名のある武芸者を斬り合いの末倒したと言われます。
やがて幸盛の兄・甚太郎が元服すると、幸高を称して山中家を継ぎ、尼子義久の近習となりました。しかし永禄3年(1560)、幸高は病弱を理由に出家、家督を幸盛に譲ります。
こうして山中家の当主となった幸盛は、この年、尼子義久に従って山名勢の籠る伯耆尾高城(鳥取県米子市)攻めに参加、初陣を果たします。
このとき幸盛は、三日月にむかって「30日以内に武勇の誉れを得ることが出来ますように」と祈って戦場に出ます。そして見事に猛将・菊池音八を討ち果たし、以来、幸盛は三日月を崇めるようになりました。
しかし、この菊池音八との戦いは『甫庵太閤記』にしかその記述がないため疑問視されており、幸盛が明確に史料に登場するのは、永禄6年(1563)の白鹿城の戦いのときがはじめてです。
幸盛は毛利軍の攻撃にあった要衝・白鹿城を救援するため、先陣の家老衆に続く第二陣として出陣しました。しかし、この戦いは先陣の敗退により総崩れとなり、救援作戦は失敗してしまいます。
このときより幸盛は、尼子を支えていくのは家老衆ではなく自分であると強い信念を抱くようになったと言われています。
その後、尼子勢は毛利の勢いに押され、富田城に追い込まれて包囲を受けてしまいます。
永禄8年(1565)4月、毛利軍は富田城を菅谷、御子守、塩谷の三方から攻撃します。幸盛は当主・尼子義久の弟・尼子倫久に属して塩谷口から出撃、吉川元春と対峙します。幸盛はお茶庫台方面に進出して敵将・高野監物を討ったといわれています。
この三面攻撃で尼子軍は、他の各方面でもそれぞれ毛利軍の攻撃を防ぎきりました。
毛利軍は一旦退いたものの、益田藤包をはじめとする武将を残して富田城の包囲を続けました。この益田藤包の家臣に、品川三郎右衛門将員という者がありました。「将員」よりも「大膳」の名の方が有名かもしれません。
品川将員は富田川(飯梨川)を挟んだ尼子の陣地に幸盛の姿を認めると、当時すでに勇将として鳴らしていた幸盛を討って武名をあげようと思い、一騎打ちを挑みした。
このとき将員は「鹿はタラの芽を食べてその角を落とす。鹿に勝つのは狼だ」と「タラ木狼介勝盛」と名を変え、幸盛に挑んだとされています。
一騎打ちに応じた幸盛が川中島へと渡っていくと、将員は得意の強弓で幸盛を狙います。これを対岸で見ていた尼子の将・秋上久家は「一騎打ちに飛び道具は卑怯」と、将員の弓の弦を射切ってしまいます。
仕方なく将員は弓を捨て、刀を抜いて幸盛に挑みますが、両者の剣の腕はほぼ互角で、容易に決着がつきませんでした。そこで将員は、刀を捨てて組討ちを挑みます。幸盛はこれに応じますが、ついに将員に組み伏せられてしまいます。
将員はもみ合いながら短刀を抜き放ち、幸盛の膝を突き刺します。同時に幸盛が短刀を突き上げて将員の腹を刺しました。将員が苦痛にのけぞったところを、「勝負あった」と秋上久家が将員に斬りかかり、首を落としてしまいます。『雲陽軍実記』では秋上久家の助太刀は入らず、組しかれた幸盛が下から突き上げ、そのまま将員の首を挙げたことになっています。
どちらにせよ、将員は討たれ、幸盛が勝利しました。尼子勢はこれにより一時的に気勢を上げますが、それもむなしいものでした。
力攻めは益なしと悟った毛利元就が、富田城の支城を落として完全封鎖し、兵糧攻めに出たのです。富田城内では急速に兵糧が欠乏していき、将兵の逃亡や同士討ちが相次ぐ悲惨な状態になっていきました。このため永禄9年(1566)、尼子義久はついに富田城を開城します。
義久は安芸に幽閉され、幸盛は浪人となって、諸国を放浪します。
幸盛は放浪の末、京都東福寺にて新宮党・尼子誠久の遺子、孫四郎と出会います。幸盛は、叔父・立原久綱らと図ってこれを還俗させて勝久と名乗らせると、尼子再興の旗頭としました。
永禄12年(1569)、勝久を擁した幸盛・久綱らは、再び出雲国へ入国します。
一時は出雲の大半を手中に収めた幸盛でしたが、月山富田城を取り戻すことができないまま、翌元亀元年(1570)毛利軍主力と布部山に戦って敗れ、敗走します。
その後、幸盛は末石城で吉川元春の攻撃に遭います。幸盛は逃れがたいと考え、元春に投降します。元春はこの投降を疑いますが、宍戸隆家、口羽通良の両将が幸盛の武勇を慕って降伏を認めさせます。幸盛は罪を許され、さらに所領を与える旨を約束をされますが、一方で危険人物とされて尾高城に幽閉されました。
この降伏は偽って降ったものとされていますが、必ずしもそうではなかったように思えます。布部山敗戦で尼子氏の再興の望みは断たれていたため、幸盛は本心から降ったとも考えられるのです。
しかし、吉川元春との相性の悪さと勝久らへの引け目から居心地の悪さを感じ、元春もまた幸盛を警戒していたため、幸盛は身の危険を感じたのでしょう。
そこで幸盛は赤痢を装って何度も厠へ通い、隙をみて汲み取り口から脱出します。
この後の幸盛の行動は諸説ありますが、どうやら勝久の出雲脱出のために陽動作戦を展開したようです。そして勝久が無事撤退すると、今度は因幡に向かいます。
天正2年(1575)、因幡に進出した幸盛は、山名豊国と結んで毛利方の武田高信を破り、鳥取城を奪取するなどの活躍を見せました。
しかし、この因幡での幸盛は徹底的に破壊・略奪を繰り返し、きわめて評判が悪いものでした。このときの幸盛の軍勢は、尼子旧臣ではなく、ならず者たちを中心とした集団であったようです。
その後、幸盛は尼子軍主力と合流し、明智光秀の仲介により織田信長の援助を得てふたたび毛利氏に奪われた鳥取城を再度奪還するなどしますが、豊国の変心により鳥取城を追われ、天正4年(1576)、毛利の反撃に遭って敗退します。
三度上洛した幸盛は、天正5年(1577)、織田軍の大和信貴山城攻めに明智光秀の手勢として加わります。幸盛は松永久秀の籠る信貴山城に一番に突入、松永方の大将・河合将監を組討の末、討ち取ります。
その甲斐あってか、信長の中国攻めの先鋒として羽柴秀吉の軍に加わることが出来、幸盛ら尼子勢は播州上月城にはいってこれを守ります。
幸盛ら尼子勢は、毛利方の宇喜多直家の軍勢と戦って上月城で攻防を繰り返しますが、天正6年(1578)、毛利軍に城を包囲されてしまいます。
たのみは羽柴秀吉の軍でしたが、別所長治ら播磨国人衆の離反により戦況が悪化したこともあって、秀吉は尼子勢を見放してしまいます。
ここにいたって、城兵の助命を条件に勝久は自刃します。そして幸盛は叔父・立原久綱とともに囚われの身となりました。
幸盛はこの投降のさい、長年付き添った家臣にあてて「長年ご苦労。今後は遠慮なく他の仕官の口をさがせ」と書状を与えています。これから察するに、幸盛は尼子再興をこの時点であきらめたのでしょう。
そして幸盛は毛利輝元のもとへ護送されます。ところが、幸盛はやはり危険視されたのでしょう。備中高梁川の阿井の渡し(岡山県高梁市)にて刺客に襲われ、殺害されてしまったのです。
幸盛の首は鞆にいた足利義昭のもとに運ばれ、ここで義昭はじめ、毛利輝元や吉川元春、小早川隆景らに検分されたとされています。
幸盛は初陣で菊池音八を討って以来、三日月を信仰し、「われに七難八苦を与えたまえ」と祈ったと言われています。そしてその通り七難八苦の末、倒れてしまいました。
法号は鹿山中的居士、幸盛寺殿潤林淨了居士、潤林院幸盛寺殿大誉淨了居士など。墓は岡山県高梁市をはじめ、全国各地に点在しています。
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鳥取県の「幸盛寺」や高梁市の「鹿之介終焉の地」行きましたよ。山中御殿はてっきり鹿ちゃんの家かと思ってました…。「われに七難八苦を与えたまえ」ってすごいですよね。私ならなるべく苦労したくないですもん。
2005/7/20(水) 午前 0:59 [ tak**han1*14 ]
「一騎打ちに飛び道具は卑怯」なんだか男を感じますね。
2005/7/20(水) 午前 9:47 [ どげだや ]
>takechanさん 私も「七難八苦」はごめん被りたいですね…
2005/7/20(水) 午後 8:52
>どげだやさん う〜ん、でも、この一騎打ちは、秋上久家の助太刀があって、どうも公平な勝負ではなかった気がします。むしろ品川将員のほうがさっぱりしていていいですね。
2005/7/20(水) 午後 8:55
賛否両論いろいろありますが、何度も毛利氏に抵抗した
不屈の闘志はすばらしいものがありますね〜♪
願わなくても自然と人生は苦労の連続です。
それを無にしなかったものが
最終の勝利者ですね。
ぽち☆
2008/10/1(水) 午後 7:51 [ - ]