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亀井秀綱(?-1566.3.20)亀井安綱の子とされる。太郎左衛門・能登守・淡路守。尼子氏一門衆として家中に絶大な権力を持ち、経久の最盛期から義久の富田城籠城戦まで戦った。最後は毛利軍と交戦中、戦死したといわれる。
天文10年(1541)に編纂されたとされる『尼子分限帖』に、「御一門衆」として「亀井淡路守」の名が見えます。これが亀井秀綱のことと思われ、秀綱が尼子氏の一族として最も重要な地位に置かれ、家中に君臨していたことがわかります。
秀綱は、尼子氏盛衰の一時代を通し、亀井一族の中で最も名を残しています。父とされる安綱も能登守を名乗ったことからその事績が混同されていますが、秀綱がごく若年の頃から経久の傍らにあり、参謀として諸政策に参加していたことは確かのようです。
秀綱は、父・安綱とともに尼子氏の主要な活動にはほとんど参画したといわれています。経久の安芸・備後方面への経略や備中・美作出兵、晴久の吉田郡山城攻めや、その後の旧領回復戦など、実に多くの戦いで活躍しています。
特に永禄元年(1558)の石見銀山を巡る吉川元春との合戦では、的確な作戦を立てて尼子晴久・本城常光の軍勢に勝利をもたらし、毛利軍に「忍原崩れ」と呼ばれる大敗北を味わわせるなどの活躍をしています。
しかし、秀綱には失策も多々ありました。
大永3年(1523)、毛利当主であった幸松丸(元就の甥)が死去しています。幸松丸は、このとき尼子氏に従っており、尼子経久により鏡山城攻略の先鋒を命じられました。しかし、病弱だったのか、帰陣後まもなく死亡したのです。
幼少の幸松丸には当然子がいなかったため、叔父である毛利元就が次期当主となり、経久もこれを承認しました。
ところが、秀綱はこの元就を危険視し、元就の弟・相合元綱や渡辺一族ら毛利家中の反対派と結託、元就排斥を計画したのです。しかし、結局この企ては未然に防がれ、元綱らは処刑されてしまいます。
この事件について、毛利氏の家臣が尼子氏の奉行人にあて、秀綱の関与を非難した書状を送っています。そしてこの後、毛利元就は尼子から離反してしまったのです。
また天文3年(1534)には、塩冶興久が経久に対して不平を露にしていますが、この仲介に失敗しています。
興久は所領の加増を求めて秀綱に仲介を求めましたが、このとりなしに失敗、かえって経久の怒りをあおる結果になってしまいます。そして最終的には、秀綱の権力をねたんだ興久の叛乱を招き起こす結果になってしまいました。
これは、経久が武の才覚をもつ興久よりも政の才をもつ秀綱を重視した結果といわれていますが、秀綱の立ち回りが内紛を引起したことは事実でしょう。秀綱の弟・新次郎利綱は興久の家臣として仕えていたため、秀綱は自身も骨肉の争いを繰り広げることになってしまいました。
そして永禄6年(1563)には白鹿城援軍の将として出陣しますが、判断を見誤って大敗北を喫しています。
この後、富田城をめぐって毛利軍の攻撃が続きますが、永禄9年(1566)、尼子氏の衰運をみてとり責任を感じたのか、わずかな手勢で出撃、杉原盛重の軍と激闘の末、戦死してしまいました。
一説には杉原盛重におびき出されて暗殺されたとも、毛利軍に投降したとも言われていますが、この前後に死亡したことは間違いないようです。
秀綱には後継男子がいなかっため、亀井家は断絶してしまいます。
しかし、筆頭格であった亀井の姓は重要視されたため、この後亀井家は、秀綱の娘婿・山中幸盛に引き継がれます。さらにその後、幸盛が山中姓に復したことから、秀綱の次女を娶った湯新十郎が亀井茲矩を名乗りました。茲矩はやがて津和野藩主となり、その家系は幕末維新まで続きました。
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津和野の太皷谷稲成神社の「稲成」は珍しいですよね。普通は「稲荷」ですよね。
2005/7/22(金) 午前 0:31 [ tak**han1*14 ]
>takechanさん よくご存知ですね〜。あそこの神社のふもとに、おいしい「いなり寿司」を売ってる店があるんですよ。揚げに味がしみこんでいて絶品です。行く機会があれば、ぜひご賞味ください。
2005/7/22(金) 午前 8:05
寿司屋さんには行ってませんね〜。山陰の小京都津和野はいいところですね。三本松城跡にも登りましたよ。稲成神社への自動車道のところに歴代亀ちゃんの御殿がありましたね。SLやまぐち号も走ってますしね。
2005/7/22(金) 午後 8:53 [ tak**han1*14 ]
SLには乗ったことがないので、機会があったらのりたいな〜、と考えておりますです。ハイ。
2005/7/22(金) 午後 9:06
秀綱は尼子のなかで重要な働きをしているわりには
最後などは事跡がはっきりしてませんね。
亀井の名前が残ったことだけが幸いでしたね。
ぽち☆
2008/10/5(日) 午後 7:36 [ - ]
>やまたろうさん
まぁ滅亡した大名家の家臣の事蹟というのはけっこうわからないものです。
たとえどんな重要人物であっても、大名家滅亡とともに史料が散逸してしまいますから。
2008/10/8(水) 午後 3:05