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亀井茲矩(1557-1612.2.27)湯永綱の子。母は多胡辰敬の娘。新十郎・武蔵守・台州守・琉球守。亀井秀綱の娘を娶って亀井家を継ぐ。山中幸盛に従って尼子再興のために奮戦、上月城落城後は羽柴秀吉の武将として因幡鹿野城防衛戦などで活躍、関ヶ原では東軍について三万八千石に加増された。
茲矩はもともと、宍道湖南岸の玉湯城主・湯氏の一族です。
湯氏は尼子氏と同じく宇多源氏佐々木氏の一族で、出雲隠岐守護となった隠岐義清の末裔と言われています。尼子清定の時代には三沢氏などとともに尼子氏と争うなどしていますが、やがて尼子氏の旗下に入りました。
とくに湯惟宗が各地を歴戦して尼子氏を支えていましたが、毛利軍によって富田城が包囲されるとこれに降ってしまいます。この惟宗の弟・永綱の子が湯新十郎で、これが後の茲矩となります。
富田城が落城すると、茲矩は流浪の身となります。しかしやがて山中幸盛らが尼子勝久を擁して尼子再興に乗り出すとこれに参加、以後は幸盛と行動をともにします。
このとき、茲矩は亀井秀綱の娘を娶って亀井家を継ぎ、亀井茲矩を名乗りました。
亀井家は、尼子氏の家老職筆頭であり、尼子一門衆として家中に君臨してきました。再興軍の形式を維持する上で、この亀井家は家中の内外への影響力から重要視されたようで、当初、亀井秀綱の娘を娶った山中幸盛が亀井姓を名乗っていました。
しかし幸盛が山中姓に復したため、幸盛は秀綱の次女を養女としてこれを茲矩に嫁がせ、亀井氏の名を託したものです。
亀井茲矩の活動は、布部山敗戦の後の出雲退去後、因幡国での転戦からが主となっています。
因幡を転戦する再興軍は、若桜城・私都城を奪取してここを拠点と定め、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍の襲来に備えました。このとき若桜城には山中幸盛、立原久綱らが入り、私都城に亀井茲矩、森脇久仍らが入ったといわれています。
『陰徳太平記』などによれば、この私都城の大将が亀井茲矩となっています。このときまだ弱冠18歳の若者ですが、茲矩の実力が買われたものでしょう。
しかし、この因幡での一戦は結局のところ敗退に終わり、尼子一党は京都に逃れます。この後、尼子再興軍は織田信長の旗下に入ってその支援を受けることになります。
再興軍は松永久秀討伐などにも織田軍として参加し、茲矩もこの中で武勲をあげたました。
この頃から茲矩は、幸盛ら再興軍と距離を置くようになります。これは、ある種の人質的意味合いもあったようですが、当時の再興軍の指導者たる山中幸盛との考え方の違いもあったのでしょう。また、幸盛も茲矩に、別の道をあえて歩ませようとした、とも言われています。
天正6年(1578)、尼子再興軍は上月城で毛利軍の包囲に遭い、孤立してしまいます。このとき茲矩は羽柴秀吉の陣にいました。秀吉は幸盛らに上月城脱出を指示、茲矩が単身上月城に潜入してこれを伝えたといわれています。
しかし幸盛らは絶望的なこの指示を拒絶、ついに降伏してしまいました。尼子勝久は自刃、山中幸盛は囚われ後、殺害されています。
茲矩はその後、中国征伐を行なう秀吉の軍に属し、天正9年(1581)には吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げ、因幡国鹿野城主に任命されて一万三千五百石を治めました。
このとき、秀吉から「望みの恩賞を言え」と言われて「日本国内に望みはない、強いて言えば、琉球を攻め取ってこの領主となりたい」と申し出、喜んだ秀吉から「琉球守」の官名を大書した扇子を授けられました。
なお、琉球遠征は後に秀吉の許可をもらって実行に移されたとされますが、暴風雨に遭って房総半島まで流され、失敗に終わったようです。
天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変にあうと、秀吉は毛利軍と講和、急ぎ京都へ引き返します。世に言う「中国大返し」ですが、茲矩は後詰めとして鹿野城に残り、毛利氏への牽制・監視役を果たしています。
こうして茲矩は秀吉旗下の武将として豊臣政権下において銀山経営、干拓、用水路開設などの行政面における手腕を存分に発揮しました。秀吉死後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは東軍に与し、戦後、その功績によって三万八千石に加増されています。
茲矩は徳川政権下においても農業開発、銀山開発、用水路開設などの行政面に手腕を振るい、また幕府の朱印状を得てシャム(現在のタイ)と交易を行なうなどしています。
小藩の領主に止まったものの、その政治・行政能力は特筆に値する人物と言えます。
なお、茲矩には中国趣味よりもインド趣味があり、鹿野を王舎城と名つけたこともそのあらわれだったと言われています。
亀井家は、嫡子・政矩の代に石見津和野四万三千石に加増転封され、幕末まで続きました。
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歴代の亀ちゃんは名君が多く実質は12万石くらいあったようですね。
2005/7/24(日) 午前 1:26 [ tak**han1*14 ]
その家風が、幕末・明治期に西周や森鴎外を生みだしたんでしょうね。茲矩は幸盛のようにカリスマ的な求心力はなかったのですが、少なくとも政治力は幸盛より断然優れています。あまり著名ではないですが、名将と呼べる人物であることは間違いないでしょう。
2005/7/24(日) 午前 8:15
森鴎外は文学者としては立派でしたが、医学者としては…でしたね。
2005/7/24(日) 午後 2:35 [ tak**han1*14 ]
森鴎外の医者としての評価を下げているのは、「脚気」を細菌によるものだと主張した件でしょう。そのため、日清日露戦争では、戦死者よりはるかに多くの兵を脚気で亡くしてしまいました。ただ、当時はビタミンが発見されておらず、当時の知識では原因の特定はできません。批難されても酷かもしれませんね。
2005/7/24(日) 午後 3:52
森鴎外は確かに脚気の問題で批難されていますが、当時最新の概念「衛生」に気を配り、病気を治すのではなく予防しようとしました。腸チフス予防接種の全軍実施し、一定の成果を得ています。これはドイツ留学時に衛生学の権威ペッテンコーフェル、細菌学の権威コッホに師事したことで得た概念でしょう。脚気の原因を細菌としたのも、またドイツ留学が影響していると思われます。
2005/7/24(日) 午後 3:56
なるほど、そうだったんですね。海軍では麦飯を採用して脚気は皆無だったそうですが。脚気に関しては東大派閥と京大派閥の対決があったとかなかったとか。
2005/7/25(月) 午前 1:03 [ tak**han1*14 ]
まあ、派閥争いに関してはちょっと無知なのでよくわかりませんが、森鴎外自身に関しては、派閥云々とは無関係に信念があったんでしょう。彼自身はあくまで医者であって、文学者ではないと思っていたそうですよ。後世には皮肉にも、脚気での失敗が医者としての評価を下げたせいもあってか、文学者としてしか知られていませんが。
2005/7/25(月) 午前 8:07
そうですね。ほとんどの人が医者であることを知らないでしょうね。
2005/7/25(月) 午後 8:23 [ tak**han1*14 ]
私も最初は文学者としてしか知りませんでしたヨ^^; そういえば、国語の教科書には経歴とかも書いてあったような気がしますが、教科書はヒゲを描くためのものでしたからね〜^^;
2005/7/25(月) 午後 8:44
私は、津和野で森林太郎のお墓を見ましたが、感動しましたね。「石見人 森林太郎として死なん」という言葉そのものでした。軍医だった鴎外がもし戦死していたら、こんな祀られかたじゃなかったろうに。官位や軍階が彫られたご立派なお墓で・・・本人の遺志とはかけ離れて・・・。
2005/8/9(火) 午前 10:26 [ shi*e*525ka** ]
>shige2525kawaさん そうですね。個人の評価とは、ときに本人の意思の意思と関係なく周りに決められてしまう。でも、それは周りの評価であって、自分自身ではない。森林太郎については、また別の項でちゃんと書きたいと思います。
2005/8/9(火) 午前 11:19
前々から興味がありましたが、この文を読ませていただき
大変有能な人物であり、世渡りのうまい人だと感じました。
あの状況下で生き抜き、最終的に所領を獲得したのは
すばらしいと思います〜♪v(・◎・)ブイッ
ぽち☆
2008/10/6(月) 午後 9:12 [ - ]
>やまたろうさん
小藩とはいえ大名家に連なった人物ですから、ひとかどの人物であったことは間違いないですよね!
2008/10/8(水) 午後 3:07