山中御殿

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宇山飛騨守久兼

宇山久兼(1511-1566.1.1)宇山久秀の子。大蔵大丞・飛騨守。尼子氏筆頭家老を務めた。毛利氏の吉田郡山城攻め等の緒戦に参加し多くの功を挙げるが、白鹿城救援戦に際しては判断をあやまり、敗走している。その後、月山富田城籠城中、私財をなげうって兵糧を買い込み尼子に尽くしたが、毛利氏に内通した疑いを受けて殺された。

 宇山氏は、尼子氏と同じく宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木氏の嫡流である六角氏から分かれたとされています。六角氏の祖は佐々木泰綱の子・頼綱ですが、その弟・輔綱が鳥山左衛門尉を名乗り、その子孫が宇山氏を称するようになったとされています。

 その後、京極氏が出雲守護となったとき、同じ佐々木氏に連なる縁で宇山氏も出雲に入り、日登郷の地頭に任じられたようです。
 宇山氏は守護代・尼子氏によく仕え、尼子氏もまた宇山氏が佐々木一門に連なることから重要視し、筆頭家老の地位を与えました。

 宇山久兼は、経久の時代から晴久、義久の三代に仕えました。
 久兼は当初、おもに中央との連絡にあたりました。それだけではなく、吉田郡山城攻めなどにも出陣し、多くの功を挙げています。

 しかしその後、毛利軍の出雲遠征に際して要衝・白鹿城が包囲されると、過去の実績から自信過剰になった久兼は、山中幸盛や立原久綱ら若年の進言を無視して硬直した戦法を立案します。
 そして亀井秀綱らととも尼子倫久を大将として援軍に駆け付けましたが、元就の老獪な戦術の前にあっけなく敗戦してしまいました。このときは幸盛らの活躍などによりかろうじて富田城に逃れ得たものの、白鹿城はまもなく落城し、尼子方の敗色は明らかとなってしまいます。

 永禄8年(1565)、元就によって富田城が包囲攻撃されます。
 元就は御子守口、菅谷口、塩谷口の三方面からの攻撃を行いましたが、久兼は汚名返上とばかりに奮戦、毛利氏の攻撃を撃退しました。

 この失敗により元就は力攻めの無益を悟り、包囲作戦をとります。そして城兵の降伏投降を許さず、城内の兵糧の枯渇を早めようと企てました。この作戦は功を奏し、急速に富田城中の兵糧は欠乏していきました。
 そして兵糧が底を付くと、投降を優遇する高札を揚げたことから、城兵は次々と城を去り、毛利軍へと降っていきました。牛尾、佐世らの家老衆までもが、義久を見捨てて富田城を去ってしまったのです。

 久兼はこの状況に歯止めをかけようと、自ら私財を投げ打って遠く丹波、若狭方面より糧食を求め、中海を経由して安来方面から間道伝いに運び込ませました。これを察した元就により、やがて間道も押さえられますが、最後まで手持ちの兵糧を分け与え、兵たちの投降を押しとどめようとしたのです。

 ところが、永禄九年(1566)正月元日、久兼は突然、主君・義久によって誅殺されてしまいます。
 これは、義久の側近・大塚与三右衛門が、「久兼が城内の兵糧を私物化し、毛利に降ろうとしている」などと讒言し、義久が信じたためだと言われ、元就の謀略であったともいわれています。

 しかし実際は、次々と家老・大身衆が尼子氏を裏切っていく中、若手と大身衆との対立が深刻化していき、義久にもそれが抑えられなくなっていた結果であろうと推測されます。

 いずれにしてもここに宇山久兼は死に、生き残った一族は尼子を見限り、毛利へと降って行ったのです。

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宇山飛騨守久兼,,,うちのご先祖様です(゜_゜)

2005/7/25(月) 午後 2:28 のこっ太

オット!そうなんですか〜。悪く書いているところもりますが、ご勘弁を…ということは、のこっ太さんは佐々木一族の後裔なんですね。何か面白いエピソードなどご存知でしたら、ぜひお知らせください!

2005/7/25(月) 午後 4:41 佐々木斉久

うちは、途中で山崎姓に変わった系列だそうで、、、昔は家に槍や刀があったとか、御祖母さんの御祖母さんかその前までは、簾越しに人に会っていたとか、、、でも、女系だったようで、お祖父さんじゃなくて御祖母さんだったみたいですね(笑)

2005/7/25(月) 午後 6:34 のこっ太

ほう〜、なかなか興味深いですね〜。「簾越しに人に会った」って…。どういう経緯で、いつごろ山崎姓に変わられたんでしょうか?興味が尽きませんね…

2005/7/25(月) 午後 8:37 佐々木斉久

重臣の久兼を謀殺したのは、ダメですね〜♪
こういう部下を大事にしない会社はつぶれますね!

元就公の謀略が成功したかどうかは
わかりませんが、
積極的にいろいろ仕掛けたのは間違いないと思います。
ぽち☆

2008/10/7(火) 午後 6:45 [ - ]

富田籠城の頃になると老臣と若手の対立がはげしくなったといわれています。
ここでいう老臣とは、出雲土着の勢力である「出雲州衆」でこれはもともと独自の勢力基盤を持ち尼子氏への依存度が比較的低い者、つまりはいわゆる国人勢力です。
若手とは、尼子氏とともに出雲に入部してきた者や、尼子氏の勢力伸長とともに力を蓄えてきた者で、「富田衆」といわれる者を意図しています。
出雲州衆は毛利氏侵攻により存立基盤となる領地を奪われて行き、相対的に富田衆に力関係で劣る立場に追い込まれて行きますから、宇山久兼の粛清というのもこうした対立構造の結果であったと推測できなくもないですね。

2008/10/8(水) 午後 3:23 佐々木斉久


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