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佐世清宗(生没年不詳)佐世幸勝の子。伊豆守。御家老衆の一人で、宇山久兼に次ぐ上席家老として家中に重きをなした。安芸・毛利氏との諸戦に参加するが、1565年富田城籠城中、落城寸前に毛利氏に降った。
佐世氏は佐々木義清の後裔で、義清の孫にあたる清信(父は湯氏を称した頼清)が大原郡佐世郷に住して佐世氏を称したことに始まるといわれています。
清宗は、尼子分限帳によれば宇山飛騨守久兼に次ぐ二番目の上席家老とされていました。また、その一族も各国に所領を得ており、尼子家中における佐世氏の威勢は相当のものでした。
清宗は、毛利氏との合戦に度々参戦しています。
晴久の代には天文9年(1540)の安芸郡山城を攻撃や、永禄3年(1560)の大森銀山山吹城を攻撃など、義久の代になってからは同六年の白鹿城救援戦などに参加しています。
晴久時代には清宗も活躍しましたが、白鹿城救援の折には、元就の巧みな作戦によって敗れて総退却となっています。
清宗は武事だけではなく、連歌や絵画などにも優れた技量を発揮したことが知られています。
天文23年、尼子晴久は連歌師・宋養らとともに連歌会を催していますが、清宗もこれに参加しています(『多胡家文書』)。
また絵の才能もあり、その画技の並々ならぬものがありました。現在も清宗筆とされる絵が残されています。
白鹿城の敗戦後、永禄8年(1565)に元就が富田城三面攻撃をしかけます。
清宗はこのとき、尼子倫久に属して菅谷口をかため、小早川隆景の進撃を食い止めたばかりでなく、これを破って敵を後退させるなど、意地をみせています。
攻撃に失敗した元就は力攻めの不利を悟り、兵糧攻めに切り替えます。
富田城を完全包囲して糧道を断ち、さらに尼子方の投降を禁じて食料が尽きるのを速やかにさせようというものです。そして兵糧が尽きた頃合を見計らって投降を奨励すると、尼子の将兵は雪崩をうって富田城を後にしました。
このとき、尼子に未来はないと感じた清宗も、嫡男・正勝、次男・元嘉とともに降参の列に加わったのです。ただ、三男の大二郎だけは城内に人質として残されていたので、父兄降参の犠牲となって殺害されてしまいました。
毛利に降参した清宗は、毛利氏に厚遇されました。
とくに正勝・元嘉兄弟は朝鮮の役にも従軍し、関ヶ原の役にも参戦して功をたてたことから、戦後、毛利氏が防・長二州に削封され萩に移った後も所領を加増されています。
清宗は、晩年は入道して源友と号したと言われ、静かに生涯を閉じています。
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まげなブログだがね。よーここまで調べちょらしゃーね。ところで私も出雲人ですが、とあるNPOの一員で、尼子十旗あたりで地域起こしはどうだろうかとたくらんでおり、勝手ながらお知恵をお借りすることもあろうかと思いますので、今後ともよろしくお願いします。ちなみに、佐世氏は1.風土記にも記載のある佐世に居城した2.佐世城は今も城址公園として整備されている3.米原綱寛との話や、萩の乱の前原一誠がその末裔、今も萩に末裔がいるというのもおもしろい。というので調べているところです。このブログ山陰発なら出色ですよ。
2005/8/8(月) 午後 4:11 [ shi*e*525ka** ]
お褒めのお言葉、恐縮です…。体裁だけはちゃんとしてるかもしれませんが突っ込まれるとけっこう答えられないことだらけですよ、私は手持ちの資料も少ないし、専門家でもありませんしね^^; 「尼子十旗で地域起し」とは面白いですね! そのためには前提として「尼子氏」の知名度アップが必要不可欠かもしれないですね…。さらに、「城=天守閣」という認識が一般的ですから、そのあたりのクリアも大変そうです。でも、「尼子好き」の私としては、ぜひ成功して欲しい試みです。
2005/8/8(月) 午後 6:20
佐世氏は名前だけは知っていましたが、
具体的にはよくわからなかったので、
大変参考になりました〜♪
毛利氏は尼子氏は意外と厚遇しているのですね〜♪
ぽち☆
2008/10/9(木) 午後 7:38 [ - ]