山中御殿

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牛尾遠江守幸清

牛尾幸清(生没年不詳)鈴木平左衛門重一の次男とされる。重則・常清・遠江守。牛尾氏を継ぎ、宇山久兼、佐世清宗に並ぶ上席家老として尼子家中に重きをなした。若い頃から経久に従って各地を転戦、晴久の代にもかわらず忠勤を励んだが、義久の代に至って毛利氏の侵攻を受けるとこれに降った。

 牛尾氏は、鎌倉時代に信州諏訪の中沢真直が出雲国大原郡牛尾荘に入ったことにはじまります。
 牛尾氏は後に尼子十旗のひとつとされる牛尾城三笠城周辺を領有し、国人領主として成長していきました。応仁の乱の当時は守護・京極氏に従って守護代・尼子氏の指揮に従いましたが、経久が公用銭の滞納を続けて富田城から追放されたときには、三沢氏などとともに尼子氏と敵対しています。
 それだけ牛尾の力は強く、富田城に返り咲いた尼子経久は、ごく早い時期から牛尾氏の取り込みに腐心したようです。

 幸清は、宇多源氏佐々木氏の一門である鈴木平左衛門重一の次男とされていますが、牛尾氏を継ぎ、尼子氏に従うようになりました。
 牛尾氏がいつ頃から経久に従うようになったのかははっきりとは分かりませんが、永正10年(1513)、尼子経久が大内義興に従って足利義稙を奉じ、上洛軍を起したおりには、経久の軍中に幸清の名が見えます。
 もっとも、経久の上洛そのものがなかったとする説もありますので、やはり正確なところは不明です。

 ともかくこの前後から、幸清は経久のもとで各地に転戦したものと思われます。
 天文9年(1540)、経久のあとを継いだ晴久が安芸遠征を試みると、これに随行して安芸武田氏を援護しています。もっとも、この遠征は大内氏の来援により尼子方の惨敗となりました。

 この惨敗の後、尼子氏は大内氏の侵攻を受けて勢力を減退させますが、籠城戦の末に大内軍を撃退すると、旧領回復のために晴久は盛んに軍を動かし、幸清もこれに従いました。
 そして永禄元年(1558)、石見で小笠原長雄が毛利元就の攻撃を受けるとこの応援のために従軍、同3年(1560)にも本城常光を助けて毛利軍と戦っています。

 ところが同年晴久が頓死し義久の代になると、毛利元就はさかんに軍を動かして出雲への攻勢を強めます。そして、この頃から幸清は精彩を欠いていきます。

 永禄6年(1563)、幸清は毛利に降った三刀屋久扶と交戦しています。久扶が毛利軍の糧道を守っていたため、糧道遮断のための作戦でしたが、元就の流言に惑わされた幸清は、勝利を目前にしながら退却してしまいます。
 また同年、毛利軍の攻撃を受けた要衝・白鹿城の救援作戦に出陣した幸清は、他の大身衆とともに硬直した作戦を立案し、判断を誤って毛利軍に敗れてしまいます。

 そしてついに富田城が包囲されることになると、一度は毛利氏の攻撃を撃退したものの、完全包囲作戦によって城中の食糧が困窮していく事態となります。
 幸清は最後まで城内に踏みとどまりますが、遂には一族とともに毛利方に降り、毛利家臣として生涯を閉じています。
 法名は円通院殿悟証義聞大居士と伝わっています。

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元就公の調略の部分は、
大変勉強になります!φ(・ω・*(・ω・*)φメモメモ♪

牛尾氏もちらりと名前はきいたことがありますが、
佐々木氏とのつながりなどわかり興味深いです。

国人から家老まで上がっていったのですね。
ぽち☆

2008/10/10(金) 午後 3:53 [ - ]

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牛尾氏は、ごく初期の段階から尼子氏に従う勢力だったようです。応仁の乱にさいしても国内のほとんどの勢力が西軍につくなか、尼子氏とともに東軍に属して戦っています。家老格と目されたのも、このような牛尾氏の歴史にあるのでしょう。

2008/10/13(月) 午前 1:43 佐々木斉久


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