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牛尾幸信(?-1570.4.15)牛尾幸清の三男、あるいは五男。弾正忠・弾正大弼?・久時?。尼子義久に仕えて毛利氏と戦う。富田城落城後は尼子勝久を擁して尼子再興を志すも、居城・牛尾三笠城を毛利軍に包囲され、火中に身を投じて自害した。
牛尾幸信は、上席家老・牛尾幸清の子として尼子家中において重きをなしていました。 『尼子分限帖』には「牛尾弾正大弼、松江の内三千七百三十二石」と見え、これが幸信のことと思われます。 幸信は父・幸清や兄・久信とともに、尼子氏の諸戦に出陣、活躍したようです。 しかし、永禄3年(1560)に尼子晴久が急死すると、永禄5年(1562)には毛利元就が出雲侵攻を開始、永禄8年(1565)には月山富田城が包囲される事態となりました。 毛利元就は、富田城に三方面からの同時攻撃をしかけます。 これに対し、三刀屋蔵人、熊野兵庫、神西元通らとともに尼子義久に属して御小守口の守備をまかされた幸信は、毛利元就の本軍を迎え撃ち、撃退することに成功しました。 ところが、この攻撃失敗に懲りた元就は力攻めをあきらめて兵糧攻めに切り替えたため、尼子の将兵は兵糧の欠乏とともに次第に戦意を失っていきました。そして最後まで残っていた父・幸清も、毛利に降る決意をしたのです。幸信も否応なく、これに従って毛利氏の軍門に降りました。 そして永禄9年(1566)、ついに尼子義久は富田城を開城して毛利氏に降りましたが、永禄12年(1569)、山中幸盛・立原久綱ら尼子旧臣たちが尼子勝久を戴いて尼子再興軍を旗揚げしたのです。 これに際して、牛尾幸清の嫡男・久信は毛利氏への恭順を続けましたが、幸信はこれを潔しとせず、勝久の元に馳せ参じました。こうして牛尾氏は敵味方に二分され、同族同士で争うことになってしまいます。 尼子再興軍の蜂起を知った毛利元就は、間もなく嫡孫・輝元を大将として征伐軍を出動させます。 元亀元年(1570)、尼子・毛利の主力同士が布部山にて激突します。幸信も五百騎を引き連れて奮戦しますが、武運つたなく尼子方は敗れてしまいました。 幸信は敗戦の後、いったん居城・牛尾三笠城に戻ります。そしてのこる手勢を集めて、同族であり毛利についた牛尾大蔵が拠る高平城を攻めたてました。しかし、少ない兵力で高平城を攻めあぐねているうちに、逆に毛利軍によって三笠城を取り囲まれてしまいます。 戦いは乱戦となりましたが、城に火をつけられたのを見た幸信は、「いまはこれまで」と妻子ともども火中に入って自害しました。 なお、牛尾一族の牛尾大炊介は、生き延びて後に山中鹿介らとともに再興軍に属し、元亀3年(1571)鳥取私都の合戦に力尽きて毛利方へ降っています。 また現在、石見・三刀屋・伯耆の各地に幸信の子孫といわれる家が残っているといわれ、岩国吉川家に仕えた子孫もあるということです。 法号は弘安寺殿潮岸順江大居士と伝わっています。
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兵糧攻めは悲惨だよね・・・。この時代策がなくても絶えるような時代だから・・大半が死に絶えるまで諦めなかったり・・・。怖い時代だ・・。
2005/7/31(日) 午前 11:16
>ロクさん ええ、富田城籠城戦は悲惨だったようですよ。兵糧不足が疑心暗鬼を呼び、同士討ちが始まる始末。やはり糧道は最優先で確保しておくべきものだったんでしょう。戦国時代とはぜんぜん外れますが、モンゴル帝国軍が強かったのは、戦争のときに一緒にヒツジなどの家畜ごと移動したので糧道の心配をする必要がなかった、ということもあるようです。
2005/7/31(日) 午前 11:35
牛尾氏が敵味方に分かれて戦った話など、
知らなかったので面白かったです。
尼子氏の内部のことがよくわかり勉強になります。
ぽち☆
2008/10/11(土) 午後 7:32 [ - ]
>やまたろうさん
尼子勝久の旗下に属した人々は、毛利の統治下ではうだつがあがらなかった人々がほとんどだと思います。勝久を擁したのも、尼子氏の復権を確立することで自己の勢力回復を図ったものでしょう。同族同士で争った氏族も、根本的にはそういった利害関係の対立があったものと思われます。
2008/10/13(月) 午前 1:50
牛尾幸信は上月城の戦いで死んだともいわれています。 (私は牛尾の末裔です)
2010/2/27(土) 午前 7:09 [ k ]
>kさん
はじめまして!
牛尾氏の末裔の方ですか、貴重な情報ありがとうございます。
ほかにも何かご存じのことがございましたら、ぜひ教えてください!
2010/2/27(土) 午後 7:20