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中井久包(生没年不詳)綱家・助右衛門・駿河守。尼子氏の上席家老として家中で重きをなした。毛利氏の出雲侵攻に際し、最後まで富田城中にとどまり、宇山久兼とともに離脱していく人心の掌握につとめたが、久兼の死により果たせなかった。
天文10年(1541)に編纂されたといわれる『尼子分限帖』によれば、中井久包は「綱家」の名で御家老衆に列し、「美作国内・八万七千石」と記されています。 このことからも、久包は宇山、佐世、牛尾らとともに、上席家老として尼子家中に重きを成したことが分かります。 戦いは当初小競り合いに終始しましたが、翌年正月には陶隆房率いる山口の大内軍が毛利氏の救援のために到着し、尼子軍と激突しました。 尼子勢はこの戦いに大敗北を喫し、出雲に退却することになります。久包も命からがら逃げ帰ることになりました。 天文22年(1553)、毛利元就の軍が石見に侵攻、尼子の将・小笠原長雄を攻撃したため、久包は晴久に属して長雄救援に向かいます。しかし、折からの長雨により江の川の水位が上昇、渡河ができなかったために救援ができず、長雄は毛利に降ってしまいます。 晴久が死に義久の代になると、尼子氏の衰運は明らかになってきます。 永禄8年(1565)、毛利元就は富田城を包囲すると、三方向からの総攻撃を仕掛けます。このとき久包は、御子守口の将として尼子義久に属し、毛利元就率いる毛利軍主力と激突、毛利軍を押し返すことに成功します。 しかし、力攻めに利がないと悟った元就は兵糧攻めに切り替え、尼子の糧道を遮断して富田城を完全包囲します。このため城内の兵糧は欠乏、ここにいたって将兵は尼子を見限り、佐世、牛尾ら家老衆までもが毛利に降っていきました。 この状況に歯止めをかけようとした久包は、宇山久兼とともに私財を投じて兵糧の確保にあたりました。しかし、義久の側近・大塚与三衛門が讒言したために、久包・久兼は疑われ、久兼が切腹する事態となりました。 このとき久兼が書簡を残し、大塚の罪悪と久包の潔白を証明したため、久包は死を免れています。 この事件の後、久包の名は史料に見られなくなります。 永禄9年(1566)、尼子義久は毛利軍に降伏開城しますが、そのとき城中にあった人物の中に久包の名はありません。病死したか、あるいは結局毛利に降ったのかもしれません。 その後の中井一族では、中井平蔵兵衛久途が尼子勝久に属して尼子再興を試みています。しかし、元亀2年(1571)に秋上久家が毛利に降った際、久途も逆心ありと疑われたため、隠岐に逃亡しています。
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最後の方も消息について丹念に調べられており、
感服いたしました!
尼子の知られていない家老についても
こちらのブログのおかげで
知ることができ大変勉強になります〜♪
アリガト(〃^▽^〃)ノ・*。.:*・゚☆ ぽち☆
2008/10/14(火) 午後 2:12 [ - ]
>やまたろうさん
この記事、まぁけっこういろんな人物伝をつなぎ合わせただけってカンジで恥ずかしい限りなんですが…(苦笑)
もうちょっと勉強します…
2008/10/22(水) 午前 1:39
色々な資料を見ても中井駿河守の正確な居城がわかりませんね…ところで月山富田城攻防などで参加している中尾駿河や中尾弾正などは中井一族なのでしょうか?
2009/8/13(木) 午前 10:49 [ やま ]
>やまさん
なんだか質問のすべてに「分からない」と答えていますが…
今回も「分からない」です。。。ゴメンナサイ。
中井一族は能義郡のいずれかの地の在地領主だと聞いたことがあります。
2009/8/15(土) 午前 1:49