|
大西高由(?-1588)大西高範の子。十兵衛・重兵衛。中老衆として尼子氏に仕え、毛利氏の富田城攻撃にも最後まで城中にあった。降伏後も安芸に赴き、義久の側近として仕えたが、その義久によって乱心のかどで手打ちにされた。
大西(だいざい)氏は、尼子氏と同じく宇多源氏佐々木氏の一流と言われています。 しかし最近の考証では、大西氏は信州飯沼氏の一族で、承久の乱のさい宇治橋の合戦で戦死した飯沼三郎の弟・四郎を祖とすると考えられます。 飯沼氏は、出雲国大西庄、および大東庄の地頭となり、以後は一族で地頭職を分与して勢力を広げていきました。そして、大西庄に本拠をおいたのが大西氏となり、そのうち立原を与えられた一族が立原氏と称するようになったようです。 尼子経久の頃には大西兵庫介高範が尼子十旗のひとつ、大西鞍掛城にあって、三万石を領有して尼子氏の重臣となっていました。十兵衛高由はこの高範の子で、『尼子分限帖』では中老衆として「備中国内・三万石」とあります。他に、大西氏の一族と思われる大西源介も侍大将として「備前国内・七千五百五十四石」とあり、かなりの勢力を持っていたようです。 天文12年(1543)、大内義隆が大軍を率いて出雲に侵攻してきます。 この際、高由は富田八幡の後ろにある宮尾に陣を置いて毛利元就と戦ってこれを破るなどの活躍をみせ、大内軍撃退に功を挙げました。 永禄6年(1563)、毛利元就の出雲侵攻が激しくなると、攻撃を受けた高由は熊野城の救援に赴きます。高由は三沢氏・小笠原氏などの包囲を蹴散らし、これに呼応した熊野和泉守が城中から討って出て 合戦は尼子勢の優勢に進みましたが、深追いした和泉守が乱戦の中に戦死したため、結局熊野城救援は失敗に終わります。 永禄8年(1565)の富田城功防戦では、高由は塩谷口の第一線を守り、攻め寄せる吉川元春をよく押し返しました。 この結果、元就は力攻めを止め兵糧攻めに切り替え、富田城内の糧食が尽きて将兵は続々と毛利の軍門に降っていきますが、高由は最後まで義久に忠勤をつくします。 当主・晴久ならびに義久の信頼もあつかったようで、天文23年(1554)の新宮党の変に際しては討っ手に選ばれて国久父子を襲撃抜群の働きを見せます。また、永禄9年(1566)にも筆頭家老・宇山久兼の粛清の際には討っ手の一人となっています。 永禄9年(1566)、富田城は開城して義久は安芸に幽閉されますが、高由は立原氏らとともに義久に随行しています。 ところが、天文十六年(1588)、高由は乱心のかどにより義久自らによって手打ちなってしまいます。 この手打ちの理由は次のように伝えられています。 尼子氏には伝来の「来国行」の銘刀がありましたが、高由が毛利方の内藤内蔵丞と雑談中、宝刀の所在について口を滑らしてしまったため、かねてからこの刀を所望していた毛利輝元により召し上げられてしまいました。 これに怒った義久は、「いかに大西十兵衛であったとしても許し難い」としてこれを手討ちにし、表向きには十兵衛の乱心として処置されたということです。 この宝刀に関しては、毛利側の記録には、「義久が毛利家の待遇に感激して献上した」とあり、毛利輝元が義久に宛てて礼の書状を送っています。 高由が口を滑らしたのが本当であれば、主家の立場を考え、その窮状を救おうとしたのが真相でしょう。 この事件の後、義久は高由の嫡孫・新四郎をもって大西家の家督を継承させ、手厚く遇したと言われています。義久にも高由の忠心が理解できたのでしょう。
|
全体表示
[ リスト ]








この人の名前ははじめて聞きました。
2005/8/3(水) 午前 0:47 [ tak**han1*14 ]
その活躍年代が尼子義久の降伏までですからね、あんまり著名ではないかも。でも、忠臣で、戦も強かったようですよ。
2005/8/3(水) 午前 8:16
尼子氏関係者は意外と優秀な武将多いんですよね^^
2005/8/3(水) 午後 2:49
>ロクさん けっこう、滅亡した戦国大名家を調べると、なかなか優れた武将が居るのに気付きますね。ただ、個々の人物がいくら優秀でも全体のまとまりがなければ烏合の衆。尼子氏の場合、これが滅亡原因でしょうね…
2005/8/3(水) 午後 4:56
義久の汚れ役をやるなど、大西氏は重要な人物ですね。
こちらのブログのおかげで、
大好きな部分ではあるが情報が少ない尼子のことが
よくわかりとても勉強になります!(* ̄^ ̄)ヾ(-ェ-ヽ)ハハァー!!
ぽち☆
2008/10/20(月) 午後 1:08 [ - ]
>やまたろうさん
この宝刀の逸話は、まぁ逸話であって事実かどうかはわかりません。
が、それでもやはり「忠義の士」であるというイメージを周囲に与えだがためにこのようなエピソードが伝わったのでしょうね。
2008/10/22(水) 午前 3:01