山中御殿

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立原備前守幸隆

立原幸隆(生没年不詳)立原幸綱の嫡男。次郎左衛門・備前守。晴久・義久の二代に仕えた功で、石見防衛戦や白鹿城救援戦などで活躍した。富田城開城後は、義久に随行して安芸に赴いた。

 立原氏は『立原系図』によれば、近江源氏佐々木盛綱の流れであるとされ、盛綱の曾孫・慶幸のときから立原姓を名乗ったことになっています。
 しかしこの『立原系図』には確実に存在したはずの幸隆の名が見えず、この系図の信憑性はあまり高くありません。

 ところで永禄3年(1560)銘の棟札が加茂町立原の須美祢神社にあり、これには「大檀越源朝臣飯沼立原備前守幸隆」の名がみえます。
 つまり、ここに記された「飯沼立原」の飯沼こそが立原氏の祖であったと思われるのです。

 飯沼氏は清和源氏で、承久の乱のおりに宇治橋の合戦で戦死した飯沼三郎の弟・飯沼四郎資行が出雲出雲国大原郡大東庄と大西庄の新補地頭に任命されました。
 その後、大西庄、大東庄を足場として勢力を伸ばした飯沼氏は一族に地頭職を分与していき、大西庄に本拠をおいたのが大西氏、立原を与えられた一族が立原氏と称するようになったものと思われます。

 幸隆は、弟・久綱とともに尼子氏の直臣となっていたことは確かですが、『尼子分限帖』には弟・久綱が中老衆として記載されているにもかかわらず、幸隆の名は見えません。これは、『尼子義久判物』によると、永禄7年(1564)4月15日に弟・久綱へ家督一円を譲ったとされており、記述がないのはそのためかとも思われます。
 ただ、『尼子分限帖』の成立年は天文10年(1541)と伝わっており、また『立原系図』の記述も含め、幸隆の扱われ方にはなお疑問が残ります。

 しかしこれは、幸隆がなんの活躍をしなかったことを示すのではありません。以下に記したように、幸隆は尼子軍中にあって数々の功をあげているのです。

 永禄元年(1558)には、尼子晴久に従って本城常光らとともに銀山山吹城を急襲しています。
 このとき、山吹城の救援のために毛利元就が自ら北池田に出陣、さらに宍戸隆家を大将とする援軍を差し向けたため、尼子・毛利両軍は忍原にて激突、幸隆らの活躍で尼子軍は毛利軍を見事撃退し、毛利は「忍原くずれ」と呼ばれる大敗を喫しました。

 その後、毛利元就の出雲侵攻がはじまると、永禄6年(1563)には包囲された白鹿城の救援の軍に加わります。
 この戦いで幸隆は弟・久綱らとともに後陣に属しましたが、先陣の亀井秀綱・宇山久兼らが不意をくらって崩れたため、横合いから斬りこんで総崩れをなんとか防いでいます。

 そして永禄8年(1565)には、毛利軍の三面攻撃を菅谷口において防ぎ、小早川隆景らを押し返して功をあげています。
 この後、毛利元就は徹底した兵糧攻めを行ったため、城中の兵糧はしだいに欠乏、ついには直臣・旧臣らにいたるまで次々と毛利に投降していく事態となりましたが、幸隆は最後まで抵抗を止めることはありませんでした。

 永禄9年(1566)、尼子義久はついに開城を決意、安芸に幽閉されますが、幸隆はこれに随行してともに安芸に入り、義久の側近として尽くして安芸国宍道で病死しています。
 弟・久綱の方が著名であり、尼子再興のために奮闘し忠臣と呼ばれていますが、幸隆もまた忠臣であったのです。

閉じる コメント(9)

いつもながら学者のような文献分析には
頭が下がります。

十勇士で有名なのは弟の方ですか?
かなりの豪将なのに知られてないのが
謎ですね。
ぽち☆

2008/10/21(火) 午前 10:58 [ - ]

>やまたろうさん
弟の立原久綱は、尼子十勇士と俗に言われる武将のなかにははいっていないのです。
十勇士は、モデルはいたでしょうが大半は後世の創作だと思われます……。
立原姓は、なぜか松江市の津田近辺に多くあり、久綱の墓もここにありますよ。兄弟とも出雲からはなれたハズですが、なぜ松江に立原が多く残るのか……謎ですね……

2008/10/22(水) 午前 3:07 佐々木斉久

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私は、松江市に住む、久綱の血を引くものです。
といっても実は、3代前に分家になったものですが、親戚の本家は東津田にありますよ。
先祖のことをあまり知らないので、調べていたら、偶然このページを見かけたのですが、久綱は出雲から離れたのですか?
親などからは、月山富田城が落ちた時に命からがら逃げたと聞いてますが、その時に東津田に移ったのだと思ってました。

2010/1/9(土) 午後 11:25 [ 立原 ]

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>立原さん
こんにちは。久綱の子孫の方ですか!
立原久綱は、尼子再興をかけて山中鹿介らとともに戦いましたが、播磨上月城の戦いで敗れ、旗頭の尼子勝久が切腹したことで再興の夢は潰えました。
尼子再興が潰えた後は娘婿を頼りに伊予で生涯を終えたと聞いています。現在久綱の墓が松江市東津田町の長源寺にあるんですが、長源寺の方のお話でも、なぜ墓所がここにあるのかは、過去帖もなくわからないそうです。

2010/1/10(日) 午前 10:57 佐々木斉久

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>立原さん
つづきです。ただ、たしかに東津田の長源寺のある地区には立原姓が多くありますね。
久綱の墓が東津田にある以上、いずれかの時期に久綱本人か、もしくはその子孫が出雲に帰り、この地に住したということかもしれません。
立原さんのご本家の方ならば、ひょっとしてなにかご存知かも?もし何かわかりましたらぜひお知らせください!

2010/1/10(日) 午前 11:08 佐々木斉久

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ありがとうございます。
とても詳しく調べられてるんですね!

伊予で生涯を終えたんですか。そちらの地域にも立原姓がいらっしゃるんですね。

私も本家に伺ってみたいと思います。
何か分かりましたら、ご報告させていただきます。

2010/1/11(月) 午前 3:17 [ 立原 ]

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>立原さん
長源寺さんのWEBサイトがあるので、以下にURLを書いておきますね。参考にしてみてください。
http://www.hpmix.com/home/kakurinzan/
ご報告、たのしみにお待ちしております!

2010/1/11(月) 午前 9:29 佐々木斉久

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長源寺さんのサイトありがとうございます。
参考にさせて頂きました。
かなりお待たせしていますが、ちょっと忙しくてなかなか調べられる機会がありません。3月頃まであまり余裕がないのですが、必ず調べますので、もう暫く、気長にお待ち頂けますか?
申し訳ないです。

2010/2/2(火) 午前 2:57 [ 立原 ]

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> 立原さん
はじめまして、関東の立原です。
中国地方の立原氏とはルーツが違いますが、趣味で立原家の家紋を調べております。よろしければ貴家の家紋、本家様の家紋が何か御教示ください。
十年近く前の記事、コメントなのでお気付きにならないかもしれませんが気長にお待ちしておりますのでよろしくお願いいたします。

2018/2/12(月) 午後 6:11 [ 立原家ファン ]


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