山中御殿

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森脇東市正久仍

森脇久仍(1533-1616.11.9)森脇久貞の子といわれる。孫三郎・東市正。姉は神西元通の室。中老衆として尼子氏に仕え、富田城籠城戦にも最後まで城中にあった。その後尼子再興戦に参加したが、因幡私都城落城後、杉原盛重の仲介により吉川元春に臣従した。のち京にのぼって死去したと言われる。

 森脇久仍は尼子氏の重臣ですが、謎の多い武将です。
 『尼子盛衰記』によると、中老衆として「播磨国・二万八千七百八十五石」とありますが、写本によっては「播磨国」ではなく「美作国」としてあるものもあるようです。
 どちらにせよ、家中において重きをなしたことに疑いありません。

 久仍は、宇山飛騨守久兼の娘を娶っています。宇山久兼といえば尼子家の筆頭家老であり、これと姻戚関係をもつ事が出来た背景には、久仍が有能な人材として認められていたことがると思われます。

 久仍は、毛利軍の出雲攻撃がはじまると富田城に籠城して抵抗しています。
 富田城は兵糧攻めの末、永禄9年(1566)年に開城しますが、久仍はこの開城より前に毛利へ降伏したのではないかと言う説があります。
 この説の背景には宇山久兼の粛清があったのではないかと思われます。久兼は粛清の前に、前もって妻女を刺殺したといわれていますが、どうやら森脇久仍の妻もその中にいたようなのです。
 舅と妻の死に、久仍は尼子を見限ったというのです。

 しかしながら、『佐々木文書』には開城時の尼子方の中老として「森脇孫三郎」の名があり、これが久仍のことを指していると思われるため、久仍は開城まで城中にあったとみてよいでしょう。
 なお、この後、久仍は後室として力石兵庫介の娘を娶っています。

 開城後、久仍は毛利の家臣となっていたようです。
 しかし永禄12年(1569)、尼子再興軍が決起して出雲千酌へ上陸して忠山砦を落とすと、久仍はこれに呼応して尼子勝久のもとにいち早く馳せ参じました。

 久仍は旧尼子家では中老であり、同じく中老であった立原・山中らよりも格上とされていますが、再興軍中での彼の地位は部隊長並みの扱いでしかありませんでした。
 この背景には、尼子再興軍の内情がバラバラであり、「大身」とされた久仍にたいする嫉妬があったものと思われます。

 再興軍の戦いは内部に矛盾をかかえながらも戦果をあげますが、月山富田城攻略には失敗、そして布部山合戦で毛利軍主力と激突します。このとき布部要害山を守っていた久仍は、布部山での作戦を立案、毛利に対し決戦をいどみますが、敗北してしまいました。
 久仍はこのとき雪で足を滑らせ谷へ落ち、そのために戦場から脱出、生き延びることができました。その後は伯州などを転戦しますが、成果はあがらず、結局出雲から撤退することになりました。

 その後、山中幸盛が因幡で戦闘をはじめますが、久仍は立原久綱らとともに京都にあって織田信長に謁見する為の段取りを行い、幸盛を因幡から呼び戻して信長との会見を実現させます。
 こうしてみごと援助を引き出すことに成功しました。

 久仍らは因伯を制圧した吉川元春が出雲に帰還したのを見計らって、因幡へ乱入しました。
 天正元年(1573)12月、因幡に入ってわずか十日間で十五城を落とした再興軍は、翌2年8月には若桜鬼ヶ城・私都城を落とします。
 ところが、協力関係にあった因幡守護・山名豊国が変心、毛利に通じたため、再興軍は若桜鬼ヶ城・私都城から追い出されてしまいます。
 
 再興軍は若桜鬼ヶ城・私都城を奪回、久仍は私都にはいり、亀井茲矩らとともにここを守りました。
 若桜・私都にはすぐに吉川元春・小早川隆景の大軍が押し寄せます。若桜鬼ヶ城に籠った山中幸盛らは頑強に抵抗しますが、久仍はここにいたって毛利に降伏してしまいます。

 これは、久仍が山中らと決別したという事でしょう。大身でありながら格下の幸盛らと行動をともにし、その軋轢がここでほころんでしまった、そう考えていいと思われます。
 その後、久仍は毛利氏の客将として150石を賜り、晩年を日野郡山上村で過ごしています。

 なお、森脇久仍の姉は、神西元通の妻で、夫の死後、織田信長家中の不破将監に思いを寄せられ、貞節を守ろうとして自害しています。

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このワッキーも初耳です。知りませんでした。

2005/8/6(土) 午前 0:27 [ tak**han1*14 ]

なんども文章中に出てくる『尼子分限帖』の序列に極力従って武将を載せていってます。『尼子分限帖』については、そのうち『入門』か『逸話』で取り上げようかと思ってますが…

2005/8/6(土) 午前 8:09 佐々木斉久

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かつての部下に使われる心情はつらかったでしょうね。
転落しての脱出など、面白かったです。

興味深いエピソードばかりでいつも楽しく
読ませていただいております。 ヽ(*・ω・*)ッ ありがとう!!
ぽち☆

2008/10/24(金) 午後 5:16 [ - ]

>やまたろうさん
彼はあくまで領主権力として、自らの旧来の基盤を確保し、あわよくば所領を拡大したいという、まぁたりまえの感覚で勝久を擁立していたのでしょう。
しかし、鹿介はそういう感覚からはズレているように思います。
それがいわゆる「忠義」ではない気がしますが、ともかく考え方の根底からのちがいが両者の間にあったのではないでしょうか。

2008/10/30(木) 午前 2:57 佐々木斉久

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ところで森脇長門とは兄にあたるのですか?また名は何と言うのでしょうか?

2009/8/11(火) 午後 6:17 [ やま ]

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>やまさん
森脇一族は何人か史料に散見できますが、どういう親族関係なのかは、調べた限りでは判然としないです。すみません。。。
長門守もいみなは不明です。

2009/8/11(火) 午後 9:50 佐々木斉久

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森脇久仍と森脇山城とは何か関係ありますか?元城主とか聞いたのですが。

2011/5/26(木) 午後 1:25 [ さすらい野郎 ]

>さすらい野郎さん
コメント遅くなってすみません!
そして申し訳ないことに、確実な回答もできませんです。ただ、おそらくは両者は同じ一族でしょう。
また調べておきますね。

2011/6/21(火) 午後 3:30 佐々木斉久

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森脇長門守は久貞、嫡男は久家、次男が久乃(東市正)、ちなみに久貞には勝正(式部)、清久(山城守)がいますよ。ただ以降の森脇氏の系譜がわかりませんが…ご存知の方よろしくお願いします

2011/11/23(水) 午前 5:08 [ Answer ]

私の家系が次男(たしか次男と聞いてます)の久乃の末裔になります。
我が家は分家で私が森脇家6代目なのですが、私の家の隣は本家森脇で仏壇を見ると20代だったかな?もっとかな?
びっくりするほど戒名とか名前とか彫られてますし、お墓にも同様彫られてます。
本家のほうは第二次世界大戦で当時の末裔の男性が戦死したため、その男性の妻に当たる方がそのまま森脇家に留まり婿養子を迎えていますので本家での血脈は絶えてしまったんですが分家の我が家が血を受け継いでます。

2019/3/9(土) 午前 5:22 [ iik***** ]


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