山中御殿

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本田豊前守家吉

本田家吉(生没年不詳)四郎左衛門・豊前守。他家との外交使者として活躍、近隣の小豪族たちの取り込みなどを行った。白鹿城救援戦など、毛利軍との一連の戦いでも力を発揮した。富田城開城後は尼子義久に随行して安芸に赴いた。

 本田は、「ほんだ」ではなく「もとだ」と読みます。
 『尼子分限帖』にもその名がみえ、中老衆として「備前国内・二万五千石」とあって、家中でも重きをなしていたことが分かります。
 なお、御手廻り衆にも「本田豊前守」の名あって「備中国内・1万4千4百53石」とありますが、これは家吉の子・与四郎の事であると思われます。

 一説によると家吉は、晴久の直臣ではなく、もとは晴久の叔父・新宮党の尼子国久の家臣だったといわれています。

 天文9年(1540)には尼子晴久の安芸郡山城攻撃に参加したものと思われ、この攻撃失敗の後は、天文11年(1542)の大内軍の攻撃に際して奮戦しています。
 その後、尼子晴久は失地回復のために東西に軍を派遣しますが、このとき家吉は外交使者として活躍、近隣の国人など小豪族たちの取り込みなどを行って功をあげたています。

 こうした外交手腕を買われて家吉は晴久の信頼を得たようです。そしてそのために、新宮党粛清の討っ手に選ばれるのです。
 天文23年(1554)、尼子晴久は叔父・国久の率いる新宮党の粛清を決意し、家吉、大西高由ら腹心の者を討っ手に命じました。家吉は軍議のために登城する国久・誠久父子を待ち伏せて討ち取ります。続いて新宮館に篭った敬久を攻め、滅ぼす事に成功しました。
 国久の家臣だったというのが事実であれば、これはかなり酷な任務であったことでしょう。しかし、家吉は主君の命令をこなしました。

 その後も家吉は主君・晴久に忠実に仕えます。
 しかし、永禄3年(1560)に晴久が急死、嫡男・義久が跡を継ぐと、毛利軍の動きが活発になり、永禄5年(1562)から本格的な出雲侵攻が始まりました。

 石見山吹城の本城常光は猛将として知られていましたが、この人物が毛利に寝返ったために、出雲国内の国人領主は動揺、毛利に降礼をとるものが続出します。これに怒った尼子義久は、家吉に本城常光討伐を命じました。
 家吉は乃木にて常光と激突します。常光は猛将でしたが、家吉も劣らぬ猛者で、この戦いは一進一退の攻防の末、あい退きとなりました。

 永禄6年(1563)には要衝・白鹿城が包囲され、義久は救援軍の派遣を決定します。この救援軍に家吉も後陣として参加します。この戦いは先陣の大身衆が敗れたため、家吉ら後陣が奮戦して総崩れを防ぐことが出来ましたが、結局救援には失敗しました。
 毛利軍は白鹿城を落として尼子軍の美保関方面からの糧道を遮断しました。このため家吉は糧道確保のために、伯州方面に奮戦、杉原盛重らと戦っています。

 しかし永禄8年(1565)には富田城が包囲され、三面攻撃の後、徹底した兵糧攻めが行われます。糧道は遮断され、家吉の活動もむなしく富田城は孤立してしまいました。
 このため城中の兵糧は急速に欠乏、ここにいたって尼子を見限った将兵たちは、次々と毛利に降っていきました。

 この中にあって、上席家老の宇山久兼、中井久包らは私財をなげうって兵糧確保に励みますが、内部分裂から宇山久兼に毛利への内通疑惑がかかり、義久によって粛清されてしまいます。
 先の新宮党粛清に続き、家吉はこのときも討っ手に選ばれました。義久の信頼があつかったことが伺えますが、家吉の心中は複雑なものがあったことでしょう。

 永禄9年(1566)、義久は万策尽きても富田城を開城しました。
 家吉は安芸に幽閉される義久に随行、あくまで尼子宗家への忠誠を愚直なまでに貫いたのです。

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本田家吉の家系 豊前守家吉は天正十一年十月に没し、尼子没落後は知巌大阿尚となった。戒名は豊念院殿正譽浄香大居士で直系は豊前守行義〜九兵衛艮道(とのみち)と続きこの九兵衛艮道の時代に出雲の宇那手で帰農しました。現在は九兵衛艮道から数えて十四代貞利が出雲市大津町に在住です。四代目三右衛門賢元の弟忠左右衛門朝定は出雲平野開拓の大梶七兵衛の養子となり二代目大梶七兵衛となって出雲の人々と松江藩に寄与しました。歴代の位牌とお墓は私の母の実家である本田家に現存しています。

2006/9/12(火) 午前 0:12 [ toy*sa*02*7 ]

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本田家吉の家系 豊前守家吉は天正十一年十月に没し、尼子没落後は知巌大阿尚となった。戒名は豊念院殿正譽浄香大居士で直系は豊前守行義〜九兵衛艮道(とのみち)と続きこの九兵衛艮道の時代に出雲の宇那手で帰農しました。現在は九兵衛艮道から数えて十四代貞利が出雲市大津町に在住です。四代目三右衛門賢元の弟忠左右衛門朝定は出雲平野開拓の大梶七兵衛の養子となり二代目大梶七兵衛となって出雲の人々と松江藩に寄与しました。歴代の位牌とお墓は私の母の実家である本田家に現存しています。

2006/9/12(火) 午前 0:12 [ toy*sa*02*7 ]

コメントありがとうございます!本田家の後裔の方なんですね!貴重な情報、ありがとうございます!興味津々。。。またいろんな情報、ありましたらおねがいします!

2006/9/16(土) 午前 1:10 佐々木斉久

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新宮党事件の実際の討つ側のこと、大変勉強になり
ありがたかったです〜♪ ヽ(*・ω・*)ッ ありがとう!!

外交手腕を買われた、等の記述もすばらしかったです。
尼子内部の組織に精通することができました〜♪
ぽち☆

2008/10/25(土) 午後 3:20 [ - ]

>やまたろうさん
「忠義の士」というなら、鹿介よりもこのヒトでしょうね。
文武に秀でた将だったようです。

2008/10/30(木) 午前 3:01 佐々木斉久

うちな母方な墓には、本田家とあり、亡くなった祖母もなぜだか分からないと言うてました。叔父が学生時代に(50年以上前)、寺に残る文献を調べたら、先祖は、月山富田城で戦った武士だと言うてました。てっきり、先祖は、本田家吉公だと思ってました。母方の本家は、16か17代くらい続いています。出雲市知井宮です。なにか詳しいことが分かればいいなと思います。親戚誰も、興味がないみたいで、誰もわかりません。僕は、歴史好きで、興味があるので、色々教えて頂きたいです。

2017/5/10(水) 午後 10:09 [ たか ]


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