山中御殿

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平野又右衛門久利

平野久利(?-1565)晴久、義久の二代に仕えた猛将。富田城が毛利軍によって包囲された折、美作小田草城に援軍要請の使者に赴いたが拒絶され、自害して果てた。

 平野久利は、晴久・義久の二代に仕えた武将で、『尼子分限帖』には御手廻衆として「出雲国内・1万8千石 」とあります。

 久利は尼子氏の諸戦に従っており、天文9年(1540)の安芸吉田郡山城の攻撃のなかにも久利の姿があります。
 そして永禄2年(1559)には毛利元就・吉川元春らに包囲された石見温湯城の救援のため出陣していますが、江の川の氾濫のため大田に退いています。

 永禄3年(1560)晴久が急死すると、毛利元就の動きが活発になり、翌々年には出雲侵攻が開始されました。
 そして永禄6年(1563)、要衝・白鹿城が包囲される事態になると、久利は白鹿城救援のため、立原久綱・山中幸盛・本田家吉らとともに、後詰として出陣します。このとき先陣の亀井・牛尾ら大身衆が毛利の戦術に翻弄されて敗れたため、久利ら後詰が奮戦、総崩れを防いでいます。

 しかし、久利らの活躍もむなしく白鹿城は落ちてしまいます。
 これによって尼子軍は、美保関からの糧道を断たれます。久利は別方面からの糧道を確保するため、本田・山中らと兵糧確保のために伯州に杉原盛重と戦っています。

 そして永禄8年(1565)、尼子氏の本拠・富田城が毛利氏に包囲されてしまいます。
 毛利軍は三方面からの攻撃を試みますが、久利は塩谷口の守備について、吉川元春の攻撃を防ぎきりました。

 こうして毛利軍の攻撃をかわした尼子勢ですが、毛利元就は兵糧攻めに切り替えます。
 このままでは早晩落城の憂き目をみることは必定であるとして、当主・尼子義久は援軍を求めて美作小田草城主へ久利を派遣します。

 小田草城主・斉藤玄蕃守近実は晴久の代から尼子に従っていましたが、本国出雲の敗報を知り、「尼子に未来はない」と援軍要請を拒みます。のみならず、危険を賭して毛利の追求を逃れてきた久利を捕らえようと、兵をもって囲んだのです。
 これに憤った久利は、無念を叫んで腹を切り、自害して果てました。

 なお、久利の息子・久基は、富田城開城後、尼子勝久に従って再興軍に身を投じていますが、伯州の戦いで杉原盛重に敗れ戦死しています。

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杉原って秀吉の妻おねの実家でしたっけ?

2005/8/10(水) 午前 0:46 [ tak**han1*14 ]

たしかにおねの実家も杉原でしたね〜。この「杉原盛重」は、備後の国人・杉原氏の一族です。もとは、備後神辺城主・杉原理興の分家筋にあたる者でしたが、理興の死後、神辺城主の地位を受け継いでいます。のちに吉川元春に属して伯州尾高城主となり、山陰方面で活躍しました。

2005/8/10(水) 午前 7:57 佐々木斉久

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白鹿城での活躍など、見所もある武将だったのですね!

残念ですが、この場合は斉藤玄蕃守の方が情勢判断は正しいですね。

兵糧攻めの時に背後を突かれる危険性を生じさせた
毛利側に問題がありますね!
ぽち☆

2008/10/27(月) 午後 6:16 [ - ]

>やまたろうさん
義久が美作に援軍を期待したのは、この時期に至ってもなお美作国内に根強い尼子与党が少なからずいたためです。
結果としては失敗でしたが、まったく成算がなかったわけではないでしょう。

2008/10/30(木) 午前 10:17 佐々木斉久


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