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米原綱寛(?-1613)平内兵衛。米原綱広の子。尼子十旗のひとつ、高瀬城主として尼子家に従った国人。晴久のもとで活躍したが、晴久死後は毛利に属した。尼子家再興のために勝久が挙兵するとこれに従い、最後まで高瀬城に残って戦った。
米原氏は、近江源氏佐々木氏の嫡流・六角氏の流れを汲み、十四代・六角定頼の甥・治綱が定頼の養子となって近江国米原郷を領し、米原氏を称するようになったのがはじまりといわれます。 また別に、三善湯原一族であるとも言われています。 治綱(入道宗勝)は後に出雲に入って尼子経久に仕え、軍功をたてたと伝えられていますが、経久に従って出雲に下向したのは治綱ではなく、その子・綱広(平内左衛門)であるとも言われています。 どちらにせよ、米原氏が経久の代から出雲にあって活躍したのは確かなようです。 なお、米原は近江では「まいばら」と読みますが、出雲米原氏は普通「よねはら」と読まれます。 綱寛の守った高瀬城は、原手郡の穀倉地帯をおさえ、東方にある加茂の大西城、揖斐伊川上流にある三刀屋・三沢城、またその下流にある鳶巣城・平田手崎城などとともに、尼子氏の重要な平站基地で、尼子十旗の一つに数えられる堅城でした。 おそらく、経久・晴久の時代には高瀬城は父・綱広が城主となっていたものでしょう。綱寛が城主となったのは、永禄5年(1562)のことだと言われています。 綱寛は幼くして秀抜、容姿も端麗であったようで、尼子晴久の寵童であったという説もあります。そのためか幼少から晴久の側近として重用されており、『尼子分限帖』には御手廻り衆の一人として「備中国内・一万七千五百石」とあります。 天文9年(1540)には晴久の毛利攻めに参加し、その後も晴久のもとで忠勤にはげみました。 しかし、永禄三年(1560)晴久が没してその子義久の代になると、毛利元就の出雲侵攻が開始されます。永禄5年(1562)、高瀬城の主となった綱寛は、三沢為清、三刀屋久扶らとともに逸早く毛利方に帰順してしまいます。 先に毛利に寝返った猛将・本城常光が抹殺さると、国人衆は動揺して尼子へ帰参する者が相次ぎますが、綱寛は毛利の陣中にとどまりました。そして永禄8年(1562)の富田城総攻撃には、小早川隆景に属して毛利のために奮戦しています。 そして富田城兵糧攻めが続く中、綱寛は毛利の使者として尼子方・立原久綱と開城の交渉に当たり、成功します。 富田を去り、杵築まで義久三兄弟を見送ってきた旧臣たちは、綱寛の高瀬城を前にして、「綱寛が尼子の恩義を忘れ二君に仕えた面憎さよ」と憤慨したと伝えられています。 尼子氏の降伏後も、毛利の大友攻めに従って九州に転戦、毛利氏に忠勤を励みましたが、永禄12年(1569)に尼子勝久の復興戦がはじまると、勝久の与党である大友宗麟は綱寛に勝久応援を求め、主君・元就は出雲の尼子勢を攻めるため綱寛の帰国を命じた。 そんな綱寛のもとに勝久からも檄が届き、恩賞を厚くして招かれます。 綱寛は慎重に構え、「すぐさま高瀬城の守備につくよう」という吉川元春の命を受けながらも緩慢な進軍で時間を稼ぎ、再興軍と毛利の合戦では日和見を決め込みました。 そして、再興軍の旗色が芳しくなったのを確認して、ついに尼子方への帰参を決意、高瀬城に拠って勝久に応じました。 しかし、再興戦は、緒戦には勝ったものの、ついに富田城を奪回できず、元亀元年(1570)には布部山の決戦に敗れたことで、いよいよ敗色明らかにまります。しかし、綱寛はその後は節を変じることなく、高瀬城に拠って毛利との交戦を続けました。 元亀2年(1571)、吉川元春の総攻撃の前に、ついに綱寛は力尽きて高瀬城を開城します。元春は綱寛の一命を助け、綱寛はいったん真山城の勝久のもとに逃れました。 その後、勝久らは因幡に討ち入って再興戦を継続しますが、綱寛はこれと分かれて京都に上り、剃髪して可春斎と号して和歌を詠じて武士を引退します。 綱寛はこのように単なる武勇の士ではなく、風流の道にも長じた人物でした。 『陰徳太平記』によれば永禄12年(1569)、浜田に唐船が入津していることを聞き、四、五日滞在して珍器などを買い求めたとも伝わっています。 以後、上杉景勝からの招きもありますがそれを断わり、静かな余生を送りました。寛永二十年に死去したと伝えられています。
なお、子の綱俊は亀井氏に仕え、以後米原氏は津和野藩士として続いています。 |
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綱寛も毛利方から、石見銀山を任すから寝返ろとかいろいろと牒略を受けていますね(ちょっと乗ったりして)。でも、最後の篭城は見事で、800対10000などという布陣で、千早城篭城にも劣らぬ攻防だったそうですね。
2005/8/10(水) 午後 5:30 [ shi*e*525ka** ]
>shige2525kawaさん 「史跡探訪」の「高瀬城址」でレポートしたように、先日高瀬城址に登ってきました。毛利軍は、二の丸(小高瀬山)まで攻め入ったということでしたが、けっこう急峻な地形で、これが事実だとすれば相当な激戦だったにちがいありません。毛利軍の犠牲者もかなりのものだったでしょう。地形を実際に見たら、十倍以上の大軍を寄せ付けなかったのもうなずける気がしました。もちろん、綱寛の武将としての器量もかなりのものだったんでしょう。
2005/8/10(水) 午後 6:48
なるほど尼子十旗の城に信頼できる佐々木一族の者を
入れたのですね。
毛利方に寝返りましたが、富田城との交渉では重要な
役割を演じたのですね!
ぽち☆
2008/10/28(火) 午後 4:18 [ - ]
>やまたろうさん
佐々木一族がなべて信用できたかというとそうではないでしょうね〜…
ただ、米原綱寛は尼子晴久と男色の関係にあったともいわれるくらいで、親密であったことは間違いないようですヨ。
2008/10/30(木) 午前 10:31