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三刀屋宗忠(?-1570)蔵人・家忠。晴久・義久・勝久の三代に仕えた。毛利氏が尼子氏の富田城を開城させると上洛、尼子再興を企てた尼子勝久の近習となった。出雲に侵入してよく戦うが、佐陀勝間城を攻撃中に戦死した。
三刀屋宗忠は、『尼子分限帖』によると御手廻衆として備中国内に1万43石を領しています。 三刀屋姓を名乗っていますが、三刀屋城を領した三刀屋久扶などの三刀屋氏(諏訪部氏)とは系譜が違い、出雲飯石郡の有力武士・三沢氏の一族といわれています。 この三沢氏は清和源氏の一族で、木曽義仲の孫・為仲を祖とすると言われています。また、長府毛利藩の三沢家に伝わる史料などによれば、同じく清和源氏・源経基の一族で、飯島氏がその祖であるとしています。 いずれにしても三沢氏の系譜には混乱が多く、また宗忠自身も不明な点が多い人物です。しかしながら、晴久の時代からその側近として活躍していたのは事実のようです。 天文9年(1540)、尼子晴久は富田城を発し、毛利氏の居城・吉田郡山城を包囲します。宗忠は側近として晴久に従い、毛利軍と戦いました。しかし、翌年には陶興房率いる大内軍が来援して尼子軍と激突、尼子軍は惨敗を喫しました。 この敗北により、三沢氏・三刀屋氏などの出雲国人は尼子を見限り、山口の大名・大内氏に通じます。しかし宗忠は一族と袂を分かち、かわらず晴久に尽くしました。 この大内氏は、三沢・三刀屋らが再び尼子氏に寝返ったことで尼子に敗北しています。 永禄2年(1559)からは、石見に侵入を続ける吉川元春との攻防戦に参加、晴久に従って戦っていますが、翌年には晴久が急死してしまいます。 晴久の死を受けて、毛利軍は攻勢を強めます。そして山吹城守・本城常光の寝返りにより尼子方の国人は動揺し、三沢・三刀屋らはまたしても尼子を捨てて毛利に寝返ってしまいました。 この時も宗忠は若き当主・尼子義久の側近として尼子家臣であり続け、一族と対峙しました。 永禄6年(1566)には白鹿城の救援に先陣として参加しましたが、この戦いは亀井・牛尾ら大身衆の判断の誤りにより、敗北してしまいます。 白鹿城の敗北により尼子方の敗勢はますます明らかになり、永禄8年(1565)には、月山富田城が包囲される事態となります。毛利元就は軍を三隊にわけ、御子守・菅谷・塩谷の三方面から総攻撃を仕掛けました。宗忠は義久に属して御子守口を守り、毛利本軍を押し返して意地を見せます。 しかし永禄9年(1566)11月、ついに義久は万策尽きて毛利氏の軍門に降りました。 宗忠は安芸に送られる義久らを杵築まで見送ることが許され、そこで主従決別の盃を交しました。 この後、宗忠は京都に上ったと思われます。そして山中幸盛、立原久綱らが、東福寺にいた尼子勝久を擁立するとこれに属して勝久の近習となり、永禄12年(1569)6月、島根半島千酌湾から出雲に侵入、忠山に陣をすえました。 その後、尼子軍は新山城に本営を移し、故城の富田城を攻撃したが奪回に失敗します。 明けて元亀元年(1570)2月、毛利軍主力がが襲来して布部山にて尼子軍と激突、尼子軍は敗北して、出雲回復は絶望的になりました。 しかし宗忠はあくまで出雲回復をあきらめず、宍道湖北岸から島根半島へ通じる要衝・佐陀勝間城の攻略を企画します。6月、宗忠は上田早苗介らとともに勝間城を攻撃しますが、毛利の将・志道左馬介の抵抗にあいます。 戦いは乱戦となり、宗忠は激戦の中、鉄砲による狙撃を受けてわき腹を負傷、壮絶な戦死を遂げました。 宗忠は山中幸盛らと比べてあまり有名ではありませんが、一族と袂をわけてまで尼子に尽くした宗忠の忠義は、あるいは幸盛以上のものであったかもしれません。
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この人の忠義は見事であり、また凄絶なものさえ感じてしまいますね。結果的には時代の流れに逆行する形の一生を送ったことになりますが、だからこそ余計に印象に残ります。
2005/8/14(日) 午前 11:43 [ mannennetaro2005 ]
>mannennetaro2005さん そうですね。尼子に限らず、あまり知られていない忠勇の士が、実際には全国に多くいたのではないかなぁと思います。
2005/8/14(日) 午後 3:32
三刀屋は寝返り国人の方しか知りませんでした。
またひとつ勉強になりました〜♪<m(_)m> ありがと
清和源氏系とするとうちと同じ系統(経基系)ですね。
日本人はほとんど源氏だとは思いますが。。。(笑)
ぽち☆
2008/10/31(金) 午後 7:29 [ - ]