山中御殿

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秋上伊織介久家

秋上久家(生没年不詳)秋上綱平の子。秋宅。伊織介・庵介。山中幸盛とともに尼子十勇士の大立者とされた勇将だが、失態も目立った。富田城籠城戦を開城まで戦いその後は尼子勝久の再興軍に身を投じたが、布部山合戦に敗れた後毛利に降伏した。

 秋上氏は、もともと大庭大宮(神魂神社)の社家です。
 この大庭大宮というのはもともと出雲国造家(出雲大社の社家)の本貫地で、国造家の大社移住後も、「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている重要な神社として祭られていました。
 秋上久家の父・三郎左衛門綱平は、この大庭大宮の社家の次男として生まれ、大永3年 (1523)、神職を兄の秋上孝重が継いだため、尼子氏の家臣となったようです。

 久家はこの父・綱平に従って秋上氏を率い、『尼子分限帖』には侍大将として「備後国内・一万石」とあります。
 侍大将の名に恥じず武勇に巧みで、とくに弓術に長じていたようです。永禄8年(1565)の富田城下の戦いで鹿介と品川大膳が一気打ちをした際、大膳が弓矢を隠し持っていることに気づき、大雁股の矢を放ってその弦を射切ったとされているほどです。
 こうしたことから後世、山中鹿介幸盛と並び称せられ、尼子十勇士の双璧とも言われました。

 久家の活躍が史上に明確に現れるのは、永禄6年(1563)の白鹿城の救援のときです。この戦いでは、父・綱平とともに大身衆の先陣に属しましたが、毛利の巧みな作戦により先陣が崩れてしまったため、さしたる活躍も出来ずに終わりました。

 白鹿城が落ちると、立原久綱・本田家吉らと糧道の確保のために美保関方面で戦い、伯州尾高城を守った杉原盛重と戦闘しますが、この戦いでも盛重の巧守のために敗れます。
 そして永禄8年(1565)には毛利軍の富田城三面攻撃を受けますが、久家は塩谷口方面・茶臼山に伏兵を置いて吉川元春を奇襲し、毛利軍を押し返しました。

 しかし永禄9年(1566)、兵糧攻めが続いて城内の糧食が尽き戦闘継続が困難になると、ついに富田城は開城、当主・尼子義久は安芸に幽閉されます。久家と父・綱平はこのとき、大庭大宮の社家ということもあってか許され、大庭に戻ったようです。

 永禄12年(1569)6月、尼子勝久が出雲に進入し、忠山に挙兵します。この時、久家は父と共に真先にこれに参加しました。そして真山城に拠点を移した尼子勢は、原手郡の戦いで勝利した出雲の主導権を握り、いよいよ月山富田城への攻撃を開始します。

 この月山攻略の主将に選ばれたのが久家でした。
 毛利方の兵はわずか数百だったといわれ、毛利の富田城代・天野隆重は「寡兵のため抵抗は無謀だから、降伏する。城の受け渡しをしたい」と使者を送ってきます。
 山中・横道らはこれに警戒を示しますが、久家は隆重を信じて城門をくぐります。しかしこれはやはり隆重の策略で、久家が本丸に続く七曲に差し掛かったところで隆重の伏兵が一斉射撃を開始、久家はどうすることも出来ずに敗退してしまうのです。

 元亀元年(1570)1月、安芸を発した毛利軍は、2月9日に多久和城へと進みます。
 久家はこの多久和城救援のために、十勇士のひとりといわれる尤道理介とともに駆けつけました。しかし、毛利の威風に戦意を失った久家らは、城将・多久和大和守を見捨てて城に火をかけ、戦わずして敗走してしまったうえ、さらに追撃を受けて2百近い戦死者を出してしまいます。
 『雲陽軍実記』には、これを皮肉って「城を明け落葉尤道理なりいかに庵を春焼にする」と狂歌がよまれています。

 このように、久家は個人の武芸は優れていましたが、一軍の将としてはあまり優秀ではなかったように思われます。そのため、この後はあまり重用されることはありませんでした。

 2月14日、毛利軍と尼子軍の決戦が、布部山で行われます。
 久家は汚名返上とばかりに勇躍戦場に駆けつけ、横道正光らとともに中山口を守りましたが、結局毛利の勝利に終わり、横道正光は戦死、久家は敗走し、森山城に入りました。

 久家はその後、伯耆方面での挽回をはかり、元亀2年(1571)3月には羽倉孫兵衛などとともに米子城の福原元秀、尾高城の杉原盛重などを攻撃しました。しかし、杉原盛重の巧守に阻まれて敗れ、羽倉孫兵衛は討死してしまいます。

 元亀2年(1571)5月、頃清水寺の大宝坊が毛利に降参した時、毛利の将・野村信濃守士悦は大宝坊と斡旋して、秋上綱平並びに久家に毛利への帰順をすすめました。ここにいたって久家は、尼子再興の不可を悟り、父・綱平のすすめもあって毛利に降伏します。

 そして久家は、わざわざ幸盛を訪ね「父・綱平の仔細によって毛利に降参するに至った」ことを幸盛に告げ、幸盛もまた快く諒承しています(実際は快くはなかったのでしょうが…)。
 毛利・尼子双方にとってこの秋上父子の降伏の意味は大きく、再興尼子軍に多大の影響を及ぼすことは明白でした。毛利輝元は元亀2年(1571)5月16日、吉川元春・小早川隆景に「秋上父子の降服を祝し、猶この機を逸せず、秋上父子をして尼子氏の諸将に降服をすすめよ」と書状をしたためています。

 しかし久家がその後、尼子撹乱に参加した形跡はありません。
 さすがに長年苦楽をともにした山中幸盛ら尼子家臣団と、争うことはできなかったのかもしれません。

閉じる コメント(6)

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毛利に降伏し、生きながらえるのも一つの生き方。久家の降参を快諾したのは幸盛の友情だったのでしょうか・・・

2005/8/14(日) 午前 0:21 ゆーくんままま

>ゆーくんママさん あるいは、幸盛ももはや出雲回復の見込みはないと知り、次の方針を模索していたのかも。もはや秋上父子が離れていったところで、大勢は決しているからどうでもいい、とでもいうようなものでしょうか…?

2005/8/14(日) 午前 8:22 佐々木斉久

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秋上久家としては、降伏は辛い決断だったと思います。わざわざ山中鹿之介のもとを尋ねたことや、尼子撹乱に参加した形跡がないことに、この人物の律義さを感じてしまいます。鹿之介もそれを認めていたのではないでしょうか。

2005/8/14(日) 午前 11:34 [ mannennetaro2005 ]

>mannennetaro2005さん 久家は豪傑型の人間で、一軍の指揮官ではなかった。しかし、国人としては有力で、尼子にとって重要な兵力を保有していた。残念ながら再興軍は国人諸侯の寄り集まりで、統制力に欠けていたため、その兵力を有効に活用できなかった。尼子再興軍が、経久とまでいかなくとも、せめて晴久ぐらいの指導力ある人物に統率されていれば、久家もその手足となって大活躍できたのだろうと思います。

2005/8/14(日) 午後 3:29 佐々木斉久

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神魂神社は行ったことあります。
ゆかりの人に尼子の勇将がいるとは
知りませんでした〜♪ …〆(ー ̄*)カキカキ

功山寺の時と同じようでこの時の天野の謀略は
あまりいただけませんね。。。

元就公の謀略は好きですが。。。
ぽち☆

2008/11/1(土) 午後 3:52 [ - ]

>やまたろうさん
秋上氏は武士というよりは、もとは神職です。もともと神魂神社は出雲国造家(出雲大社の社家)の支配下にあったのですが、国造家が尼子氏とかならずしも良好だとは言えない関係にあった時期から、尼子氏への接近をはかっていたものと思われます。

2008/11/1(土) 午後 5:41 佐々木斉久


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