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川副久盛(?-1569)川副常重の子か。河副。右京亮・美作守。大内氏などとの外交で活躍、後に美作に侵攻して林野城主となる。後藤氏が離反するとこれを撃退するが、毛利氏が出雲本国に侵攻するに及んで出雲に退去、その後、勝久に従って尼子再興を図るが、病没した。
川副氏は、一説に宇多源氏佐々木氏の一族と言われていますが、定かではありません。これがいつの頃からか出雲にはいり、仁多郡横田庄竹崎を領したといわれ、竹崎川副城を居城としました。 早くから尼子氏の守護代時代にはすでにこれに仕えたようですが、経久の守護代罷免後、川副常重と思われる人物が富田城奪回に協力して執事に任じられとされ、尼子氏の重臣に列しました。 久盛はこの常重の子とされますが不明な点が多い武将です。常重と同じく美作守を称したことから、その事跡が混同されて伝わっていることも多いようです。 また、別に右京亮を名乗っており、富田城籠城時には右京亮・美作守の両方の名がみえることから、このことも久盛の事跡を分かりにくくしています。 ともかく、久盛が経久の頃から尼子氏に仕えたことは事実のようで、吉川氏や大内氏との外交交渉に従事しています。 『尼子分限帖』には侍大将に列し、「備後国内・一万石」とあります。 天文9年(1540)、尼子詮久(晴久)が毛利氏の居城・吉田郡山城を大挙して攻撃しますが、その軍に久盛も父・常重とともに加わっています。 しかし翌年正月、尼子軍は来援した陶隆房率いる大内軍に敗北、撤退を余儀なくされました。 その後、天文11年(1542)から大内義隆が出雲遠征を開始、翌年には富田城を包囲しますが、戦果はあがらずに大内軍は敗北します。 大内軍を破った晴久は、同年から失地回復のために四方に遠征を開始します。そして天文13年(1544)には美作に出陣、久盛も晴久に従って出陣して戦果をあげます。そして久盛は林野城にはいり、三星城の後藤勝基ら美作の国人衆を従えました。 久盛はその後林野城主として美作を守り続け、天文23年(1554)には新免宗貞の竹山城を攻めて、これを奪っうなどの活躍をみせます。ところがこの同年、晴久が叔父・国久の率いる新宮党を滅ぼすと尼子家臣団に動揺が走り、各国の支配力が弱まってしまいます。 美作も例外ではなく、三星城主・後藤勝基が尼子氏から離反、備前天神山城主・浦上宗景と通じて林野城を攻撃しました。しかし久盛は江見久次、水島左京助、長瀬三郎兵衛らを従えてこれを迎え撃ち、逆に三星城下にまで迫って勝基を蹴散らしました。 弘治3年(1557)には、赤松氏に属する豊福氏の助けを得て、新免宗貞が竹山城に復帰します。 しかし翌年、宗貞が没したため、久盛は尼子氏に与する宇野政頼の三男・宗貫にこれを嗣がせ、新免氏を勢力下に入れました。 なお余談ですが、新免宗貞の娘は平田無二斎という人物と結婚、剣豪・宮元武蔵を生んだといわれています。 その後も久盛は林野城を堅守しましたが、永禄3年(1560)に晴久が没して義久があとを継ぐと、その2年後の永禄5年(1562)から毛利元就が出雲侵攻を開始したため、その救援のために林野城を退去して出雲に引きあげました。 久盛の退去により、尼子氏は事実上美作の支配権を失うことになりました。 久盛は富田城に戻ると毛利軍相手に抗戦しますが、毛利軍は正攻法をあきらめて兵糧攻めをとり、城中の兵糧が欠乏するに及んで投降を奨励しました。 そのため、重臣たちまでもが次々と毛利の軍門に降り、ついに永禄9年(1566)、富田城は開城しました。尼子大身衆の中で最後まで富田城に残ったのは、久盛のほかには森脇久仍だけだったと言われています。 その後、永禄12年(1569)に勝久が出雲に入国、忠山に挙兵すると、久盛はこれに馳せ参じます。
尼子再興軍は旭日の勢いで出雲を回復していきますが、富田城の攻略には失敗します。そして久盛は間もなく病を得、富田城奪回を願いながら真山城で没しました。 その後の尼子軍の敗北を見ることなく死んだことは、忠臣・久盛にとっては幸せだったかもしれません。 |
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大河ドラマでは宇山と混同して使われていましたが、
川副氏は本当はどんな人物だったのか知りたかったので、
こちらの記事でよくわかりありがたかったです。
美作の国の武蔵とのからみもおもしろいですね〜♪
佐々木斉久さんは、歴史家か小説家のように文章が
上手なので、ネット小説「宇喜多直家の謀略」
「尼子経久の生涯」とか書いていただきたい
くらいですね〜♪ m(^-^= ) オネガイシマス!!
ぽち☆
2008/11/3(月) 午後 8:00 [ - ]
>やまたろうさん
あ!
この記事、嘘があります(汗)
倉敷林野城主になったというくだりですが、これはまったく別の人物です。
2008/11/5(水) 午後 6:25
こんにちは!河副久盛の子孫です。河添と申します。河添は近江国神崎郡川副邑発祥の宇多源氏佐々木氏流で同属の尼子持久の子清定が守護代として出雲下向時に声をかけられ重臣として川副常重が同行致しました。川副邑は今の東近江市五個荘のうち宮荘町だったと思います。文献に宮荘には川副館があった。ということです。小字で川添、
川添川が古より絶えることなく流れています。常重も分家筋で一旗上げるべく出雲へ旅立ったんでしょう。約100年後に本家筋の川副兵庫之助は六角氏との戦いで北庄3人衆として戦死(1560年)出雲に到着した常重、久盛等の名前は川副から河副になっています。河副久盛が
美作方面に展開した時に壬生という地名に河副甚七郎の名前も見え美作の壬生には現在も河副さんの名前がいくつか見受けられるのは、興味深いです。尼子が毛利に滅ぼされた後1569年久盛死去。その子久信は出雲に残り弟等は1959年に讃岐国へ入国。生駒親正の家臣となりました。河添勝右衛門、河添三九郎、川副勝左衛門尉、河副久作が生駒親正が讃岐襲封時に高野山に参拝して残した(高野山文書)に名前があり勝右衛門、その子三九郎が直接の先祖です。
2013/5/28(火) 午後 1:28 [ mak*h*nsh*nmak* ]
本家の川副兵庫之助の死後、嫁さんは、彼女は川副勝重の娘ですが長浜の木下藤吉郎の嫁ねねに出仕。やがて、藤吉郎が豊臣秀吉になりねねが北政所になって彼女はその秘書官的な役割を担う「孝蔵主」となります。表の事は浅野長政に、奥の事は孝蔵主に。そう言われました。そして、秀吉の死後北政所の了解を得て徳川秀忠に出仕。徳川時代の「大奥」の原型を作ったのも彼女ですよ。彼女の死後、甥(孝蔵主の弟、正俊の子、重次)が旗本となり江戸川副家の祖となりました。因みに、重次の妹は川副徳子ですが秀吉の側女として大阪城に上がっています。
2013/6/30(日) 午後 9:22 [ mak*h*nsh*nmak* ]