山中御殿

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三隅石見守兼連

三隅兼連(?-1353)三隅兼盛の子。西石見に勢力を持った豪族。後醍醐天皇が伯耆国船上山に挙兵すると一族を率いて馳せ参じ、建武政権の成立に貢献した。足利尊氏が北朝を立てた後も建武政権(南朝)に従い、足利直冬を迎えて抵抗するが、京で尊氏に敗れて戦死した。

 三隅氏は益田氏の一族で、石見国那賀郡三隅郷を本拠として西石見一帯に勢力を持った地方豪族です。
 系図によれば御神本氏の一族で、御神本兼高が石見国益田に住して益田氏を称し、その二男・兼信が三隅・木束・長安の地頭職を得て三隅高城に拠ったことから三隅氏を称したといわれています。

 三隅兼連は三隅氏四代の当主で、鎌倉末期から南北朝の動乱を記した『太平記』にも登場する武将で、豪傑として知られています。

 文永11年(1274)、元(中国の王朝)の皇帝、フビライ・ハーンは、中国・朝鮮などの軍勢を動員して日本への遠征を行います(文永の役)。元軍は集団戦法を用いて、個人戦に凝り固まった日本の武士団を蹴散らしますが、暴風雨のために撤退します。

 この元の襲来のおどろいた鎌倉幕府は、北九州を中心とする日本海側各地に防塁を作らせ、再度の元の遠征に備えさせました。石見も例外ではなく、兼連は惣領・益田氏の指示に従って高城を築城、さらに、三隅石塁・針藻島砦・碇石砦の、三隅三砦を築きました。

 弘安4年(1281)、再度の元軍襲来が行われますが(弘安の役)、これらの備えがかなり役立ち、また兼連らの活躍もあって撃退に成功します。
 しかし、これらの働きに寸土の加増もなく、築城費用の負担で疲弊した兼連は、幕府や惣領・益田氏をうらむようになったといわれています。

 こうして兼連は、徐々に益田氏からの独立を図るようになります。三隅氏の領地が益田氏の領地とは地理的に隔絶されていたことも、その理由のひとつでしょう。

 そんな兼連は、反幕の姿勢をとる後醍醐天皇に期待するようになります。
 後醍醐天皇は、元弘元年(1331)に元弘の変に敗れて隠岐に配流となりますが、元弘三年(1333)、密かに隠岐を脱出すると、名和長年にむかえられて伯耆国船上山において挙兵します。

 兼連はこの報を聞くや、高津長幸・佐波顕連などとともに一族をひきいてこれに参じます。
 この流れに、足利尊氏や新田義貞らも反幕府の姿勢を明らかにし、鎌倉幕府はついに滅亡、同年六月には後醍醐天皇は兼連らを伴って、意気揚々と京に入りました。

 しかし、後醍醐天皇の政治は倒幕に功のあった武士を軽んじ、武士団の不満をあおります。このため、足利尊氏は後醍醐天皇に反して北朝を立て、世は南北朝の動乱へと突入します。
 この内乱期に、惣領・益田氏は北朝につきますが、兼連はついに益田氏と絶って後醍醐天皇方(南朝)につき、石見における南朝勢力の中心勢力として、めざましい活躍をみせます。

 建武3年(延元1・1336)、足利幕府は上野頼兼を石見守護に任じ、北朝勢力拡大のために石見に下向させます。翌4年(1337)には、頼兼は大軍を率いて兼連のこもる三隅高城を攻めましたが、兼連の奮戦によって上野軍は敗北しました。

 暦応元年(1338)、兼連は反撃に転じて北朝方の益田兼見のこもる益田七尾城を攻撃、同3年(興国1・1340)には石見国司・日野邦光らとともに北朝軍の攻撃にあった豊田城を救援するなど、縦横無尽に活躍しています。

 康永3年(興国5・1344)、三隅軍はさらなる攻勢に出ます。
 しかしこれに対し、上野頼兼と益田兼見は三隅氏の井ノ村城に向かい、木束城・三隅高城を攻撃しました。続けて貞和2年(正平1・1346)にも上野頼兼は益田兼見・吉川経明・田村盛泰・出羽実祐らを三隅高城に出撃させますが、兼連の巧守の前に敗北しています。

 観応元年(正平5・1350)、足利尊氏の庶子・足利直冬が九州にて尊氏に反したため、尊氏は側近の高師泰を討伐に向かわせます。しかし、兼連ら石見の南朝勢力が直冬と通じたため、挟撃にあうのをおそれた高師泰は石見に軍を向け、中国の諸将にも出陣をうながしました。

 師泰の大軍は佐波顕連の拠る鼓ケ崎城を陥れて顕連を屠りました。
 勢いを得た師泰はそのまま三隅高城に攻め寄せましたが、兼連はよく戦い、師泰も攻めあぐねて包囲戦となります。にらみ合いが続く中、尊氏から師泰に帰京命令が出たため、師泰は包囲をといて撤退を開始しました。
 兼連はこの機を逃さず猛追撃を開始、師泰軍は散々な態で石見を脱しました。

 この後、九州にあった足利直冬は南朝に降り、同じく南朝に帰順した山口の大内弘世と結んで、文和2年(正平8・1353)に石見に入ります。三隅兼連は直冬を迎えて、美濃郡大屋形村に高嶽城を築いてそこを直冬の居城としました。

 同年9月、直冬は朝廷から尊氏の総追捕使を命じられ京都に進軍を開始します。兼連もこれに従い、兵を率いて京都に入ります。
 そして兼連軍は、足利尊氏の軍勢と京都七条にて激突します。戦いは熾烈を極め、乱軍のなか、兼連は戦死してしまいました。

 死に際し、兼連は「自分の墓は必ず東方に向けて築くように」と言ったといわれます。この遺言が守られたのか、兼連の墓と伝えられる五輪塔が三隅町正法寺の境内にあり、東方を睨んで静かに立っています。

 なお、兼連の長子・兼知も文和元年(正平7・1352)に山城国男山において討死しています。
 その後、貞治3年(正平19・1364)、北朝に転じた大内弘世が三隅氏を継いだ三隅直連を攻め、三年の激戦を経て、ついに直連も南朝に降っています。

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今度三隅氏を題材としたの講演会があったような・・・調べてみます。

2005/8/19(金) 午後 1:49 ryo*6*8

おお〜、そうなんですか! 面白そうな。行けたら行こうかな…

2005/8/19(金) 午後 1:55 佐々木斉久

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いやいや、すばやいレスポンス。さすがですね。蒙古軍に備えた防塁まで作っていたとは知りませんでした。ところで、あの小さな三隅町に三隅城の支城として10いくつもの城址が残っているそうですが、本当でしょうか。三隅全体がこれ城砦という感じですよね。目印があればツーリングするのに。蛇足ながら大麻山には奇怪な昔話がたくさんあるそうですね。また教えてください。謝・謝!

2005/8/20(土) 午後 3:22 [ shige2525kawa ]

え〜、お褒めに預かり恐悦至極。手持ち資料があまりなかったので、お粗末でございます。三隅町に残る城跡ですが、「島根県遺跡データベース」というサイトがあるので、それを見ればイッパツでわかりますよ!地図も表示できます。ただし、登城可能かどうかまでは分かりませんが…http://iseki.ipc.shimane-u.ac.jp/index.html

2005/8/20(土) 午後 4:03 佐々木斉久

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元寇、南北朝動乱とスケールの大きな内容で
楽しめました〜♪

これからもこの辺りの記事、楽しみにしてます
ぽち★

2008/11/5(水) 午後 6:26 [ - ]

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>やまたろうさん
南北朝時代って複雑で難解ですけど、けっこう面白いんですよね。ただ、あまり皆さん興味がないのか書籍が出回ってないのが残念です…

2008/11/6(木) 午前 0:44 佐々木斉久


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