山中御殿

基本、携帯で投稿・閲覧してますので、一部機能が認識できませんです。

全体表示

[ リスト ]

加藤彦四郎政貞

加藤政貞(?-1578)塩冶清久の子で、塩冶興久の孫と思われる。彦四郎。富田城落城後、尼子勝久の尼子再興に参加したが、播磨上月城落城のさい、尼子一門の氏久に殉死した。

 加藤政貞は「彦四郎」を名乗っています。
 この「彦四郎」の名乗りは尼子経久の三男・興久が使っていたもので、その子清久もまた「彦四郎」を名乗っていることから、政貞は清久の子で、興久の孫と考えられています。

 政貞の祖父・興久は尼子経久の三男で、勇武に優れた武将でした。
 このため経久は興久を西出雲一帯の要として塩冶氏を継がせ、出雲塩冶に三千貫の所領を与えましたが、興久はやがて経久に謀反して敗れ、岳父・備後甲山城主山内直通を頼って同地で自害しています。

 政貞が「加藤」姓を名乗ったのは、この興久の謀反とは無関係ではないでしょう。この謀反によって、政貞の家は、相当苦しい立場に陥ったことは間違いありません。
 しかしながら政貞は尼子家臣としての地位を持ち続け、『尼子分限帖』にも足軽大将として「美作国内・五千二百十七石」と、その名を見ることが出来ます。

 永禄5年(1562)、毛利元就が出雲への侵攻を開始します。若き当主・尼子義久に老練な元就の相手が勤まるはずもなく、尼子軍は各地で敗北を重ねていきました。
 永禄9年(1566)、富田城は開城して尼子義久は安芸に幽閉されてしまいますが、このときまで城中にあった武将たちの中に政貞の名が見えないことから、政貞は開城のまえに毛利の軍門に降っていたものと思われます。

 こうして政貞は毛利家臣となりますが、永禄12年(1569)に尼子勝久が出雲国へ入国して忠山に挙兵すると、これに馳せ参じます。尼子勢は原手郡の戦いで勝利して一時は出雲の大半を手中に収めましたが、肝心の月山富田城を取り戻すことができませんでした。

 翌元亀元年(1570)、毛利軍主力が九州から転じて出雲に入り、布部山にて尼子軍と対峙します。政貞は山中幸盛の手に属して水谷口を守備します。尼子軍は善戦しますが、吉川元春が別働隊を率いて間道から背面を突いたために、結局敗走してしまいます。

 布部山での勝利に勢いを得た毛利軍は、尼子方の諸城を各個撃破していきます。
 米原綱寛の篭る要害・高瀬城も毛利軍の攻撃の標的となったため、尼子勝久は政貞らに命じて救援させました。政貞は、高瀬城の武将・米原与市兵衛らとともに毛利軍を押し返し、さらに進んで平田手埼城を攻撃しますが、毛利方・杉原播磨守の巧守にあって退却しています。

 やがて、安芸で毛利元就の病状が悪化すると、変事を恐れて毛利軍は出雲の軍勢を大半引き上げます。これを好機として、政貞らは米原綱寛・秋上久家らとともに末次城に押し寄せます。
 政貞らの猛攻により、尼子軍は末次城を陥落寸前まで追い詰めますが、吉川元春が別働隊を真山城攻撃にまわしたため、やむなく真山救援のために撤兵、末次陥落には至りませんでした。
 こうして政貞らの必死の働きもむなしく、尼子軍は次々と敗れ、あるいは毛利に降って行ったため、翌年には勝久とともに真山城から撤退、出雲から退去しました。

 その後、上洛した政貞ら尼子勢は織田信長の援助を得ることに成功、天正2年(1575)、因幡に進出します。因幡では、山名豊国と結んで毛利方の武田高信を破り、鳥取城を奪取するなどしましたが、やがて豊国の変心により鳥取城を追われ、天正4年(1576)には毛利の反撃に遭って敗退します。

 天正5年(1577)、尼子軍は信長の中国攻めの先鋒として羽柴秀吉の軍に加わることになり、政貞ら尼子勢は播州上月城にはいってこれを守ります。
 しかし天正6年(1578)、毛利の大軍に城を包囲され、羽柴秀吉も戦況の悪化により尼子勢を見放してしまったため、上月城は開城することになりました。

 毛利の出した条件は勝久ならびに尼子一族の氏久、そして神西元通の切腹でした。政貞は氏久切腹の介錯をつとめ、そのあと自らも切腹してこれに殉じました。
 上月城本丸あとには、このとき戦死・陣没した将兵を供養する供養塔が建てられ、政貞らの魂魄を慰めています。

閉じる コメント(5)

顔アイコン

政貞は幸盛よりもかなり尼子氏のために
激闘していた武将なのですね!

苦闘が報われなかったのが、
残念ですね!( -人-) 臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前、、、
ぽち★

2008/11/7(金) 午後 6:06 [ - ]

加藤政貞の子孫の方とは……!
諮られた、というのが気になりますが、加藤家は続いていたんですね。
家伝などお聞きできたら嬉しいです。
書き込みありがとうございます。

2011/2/22(火) 午前 8:39 佐々木斉久

上月城資料館館長が、資料を探して下さいました。また、逃げ切れなかった加藤家の女子ども、家臣の皆様の御遺体を葬って下さっているらしいお寺も菩提寺の他にみつかりましたので、この、夏休みに伺って来ます。
なぜ、塩治ではなく加藤と名のったのかも知りたいです。
そして、どうやって先祖が、いきのびたのか。
末裔のひ祖母は、わざわざ尼子氏と同じ宗派のお寺の近くに居を移し永代供養を自ら頼み亡くなりました。
天涯孤独の身だったようです。
先祖代々伝わる小太刀なども、お寺に預けてあります。
なぜか、先祖が今になって私の家族を呼んでいる。何か頼みたいことがあるように思えて仕方ありません。
加藤政貞はあまりよい伝承が無い中、この様にブログに書いて頂きお礼の言葉がみつかりません。
ありがとうございます。

2011/8/9(火) 午後 7:46 [ wak*wak**om2006 ]

返信おそくなってすみません。
加藤政貞が清久の子であるというのは、通称のみを手がかりにしたかなり乱暴な推測なので、確実なことはわかりませんです。
ただ、この推測が正しいとしても、清久はどうやら塩冶ではなく尼子を称していたようですので、そもそも政貞が塩冶を称することはなかったものと思われます。
また清久は、どうも大内義隆の出雲攻撃時に大内氏に寝返ったようです。その後の清久の消息は不明ですが、このあたりに手掛かりがあるかもしれませんね。

2011/8/24(水) 午後 1:40 佐々木斉久

ご無沙汰しております。

私どもの家紋が、正貞公が勧請した出雲大社分院奥の院に印されている、興久公の家紋と一致しました。
今は、首塚を探しております。
何かご存知であればご教授下さい。

2012/1/30(月) 午後 3:28 [ wak*wak**om2006 ]


.

ブログバナー

佐々木斉久
佐々木斉久
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事