山中御殿

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神西三郎左衛門元通

神西元通(?-1578)神西久通の子。三郎左衛。国通。尼子十旗のひとつ、神西城主として尼子氏に仕えた。富田城落城後は毛利氏に一旦仕えたが、尼子勝久の尼子再興の動きに応じて各地に転戦した。播磨上月城落城のさい、勝久に先立って自刃した。

 神西氏は、小野篁の流れをくむ小野氏の庶流といわれています。この小野氏とは、平安時代末期に勃興した武士団である武蔵七党の一角を占めた家柄です。
 この小野氏の中に、承久の乱で活躍した小野高通がおり、貞応二年(1223)にはじめて神西の地頭に補され、在地名をとって神西氏を称したのが神西氏のはじまりとされています。
 そして出雲西部に根を下ろして国人として発展した神西氏は、室町期には出雲守護・京極氏に属し、やがて尼子経久が台頭するとこれに属しました。

 元通は、天文4年(1535)、父・久通より家督を譲られ、尼子十旗のひとつ神西城に拠って尼子氏に仕えました。『尼子分限帳』には足軽大将として「美作国内・4千6百66石」とあります。

 元通が家督を継いだ頃は、経久は老境に入り、ようやく尼子氏の威勢に翳りがみえはじめた頃でした。
 この苦境を跳ね返すべく奮闘した次代の晴久は、天文9年(1541)、安芸毛利氏の居城・吉田郡山城を攻撃します。この戦いに元通も参加していますが、戦いは尼子方の敗北に終わっています。

 続いて大内氏の侵攻を受けますが、これを跳ね除けた後は晴久は再び攻勢に転じ、尼子の意地を見せ付けています。しかし永禄元年(1558)には、毛利元就が出雲へ攻め入る形勢を見せはじめます。
 このとき、尼子勢は富田城中で軍議を行いますが、亀井能登守が「銀山、羽根ロは神西三郎左衛門を城地堅固に守らせ、三瓶山口にたしかなる押えこれ無く候間」と発言しており、元通は出雲西部から石見方面への押さえとして重要な働きをしていることが伺えます。

 永禄3年(1560)、晴久が急死して義久が後を継いだころから、尼子氏は一気に衰退の色を深めていきます。
 そして永禄5年(1562)、ついに毛利氏は本格的な出雲攻略に出、目前の敵、石見山吹城主・本城常光を調略によって味方につけると、出雲の国人領主たちは大きく動揺し、先を争って毛利に降っていったのです。
 石見への玄関口にあたる神西城を治める元通にとっても、常光の変節は大きな衝撃でした。すでに三刀屋・三沢などの国人も毛利に降礼をとっており、元通も余儀なく毛利氏に降ってしまいます。

 しかし同年、常光が毛利氏に謀殺されると、元通は身の危険を感じ、尼子に再び帰参、富田城にはいっています。そして永禄8年(1565)、毛利元就が富田城へ総攻撃をしかけたときには、大手門を守って奮戦しました。

 この後、毛利氏は富田城に対して徹底した兵糧攻めを行っています。これに音をあげた尼子の将兵は次々と毛利に降っていますが、元通もこれら諸将とともに毛利に降ったようです。
 こうして結局、富田城は落ち尼子義久は毛利に降り、戦国大名尼子氏は没落の運命となりました。
 そして毛利氏に降った元通は、伯耆の末石城主に配されました。代々の居城である神西城に復帰できなかったのは、在地性が強すぎるために警戒されたのでしょう。

 その後の永禄十二年(1569)、尼子勝久が出雲へ攻め入ります。
 元通はこの動きに慎重にかまえ、出雲の大半が勝久の手中に落ちても沈黙を守り続けました。
 しかし、尼子再興軍の中心人物である山中幸盛が元通に書状を送って味方に誘ったため、ついにこれに応じる決意をしました。そして元通は監視役として末石城にいた毛利家臣・中原善左衛門を斬り、勝久に帰順します。
 こうして元通は、勝久を擁して出雲を席巻しました。

 しかし、翌元亀元年(1570)、布部山の戦いに敗れた尼子勢は、次第に勢力を失い、翌年には出雲から退去して京へ逃れることになりました。
 そして京に逃れた元通ら尼子一党は織田信長の配下となり、天正5年(1577)、羽柴秀吉の毛利攻めの先鋒に配されて播磨国上月城に入りました。

 これを察知した毛利軍は、大軍をもって上月城を包囲します。秀吉は援軍を率いて隣りの高倉山に陣を張りますが、信長からの退去命令もあって退却してしまいます。
 こうして上月城は孤立、万策尽きた尼子勢は開城を決意します。

 開城の条件として毛利が示した条件は、主将・勝久および一族の氏久の切腹、そして元通の切腹でした。元通は潔く切腹し、上月城は開城して城兵は助命されました。
 上月城趾には、今も勝久・元通らの供養碑が立っています。

 なお、元通の妻は森脇久仍の妹ですが、元通没後、京都誓願寺に入って尼となっています。大変な美貌だったため織田信長の近習・不破将監に見初められましたが、操を守るために自害して果てました。
 彼女は死に臨んで、「思川沈む木屑も浮む瀬をみのりの舟にかけてたのまん」と詠んだと言われています。

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神西氏は上月城の時切腹を命じられたのは、
重要人物というのもありますが、
やはり毛利方を寝返ったから警戒されたのかも
しれませんね。
ぽち★

2008/11/8(土) 午後 5:15 [ - ]

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お聞きしたいのですが、元通妻は、誓願寺で尼になられたのですが、位牌、お墓はどこにあるのかご存知でしょうか?また、どこの川でお亡くなりになられたのでしょうか?教えて頂けたら喜びます。宜しくお願いしますm(_ _)m

2013/9/9(月) 午後 3:26 [ サリー ]


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